今回の「京都秘境ハンター」は京都に「幻の五山送り火」がかつて実在していたという話題です。「五山送り火」は毎年8月16日(お精霊送り)に行われる京都のイベントで、お盆が終わり先祖が帰るのを見送るための祭事です。かつては10箇所以上で「送り火が行われていた」のが歴史資料から判明しています。
では、その「幻の五山送り火」はどこにあったのでしょうか?
京都秘境ハンター始まります!
京都には、かつて「幻の五山送り火」が実在していた
2018年8月16日に京都で「五山送り火」が開催されます。
京都御所を中心に北側に見える山で松明を燃やして文字などをかたどる夏の風物詩です。
現在は五ヶ所で行われている「五山送り火(ござんおくりび)」ですが、かつては十ヶ所で行われていたことが歴史資料から分かっています。
・船形万燈籠(西賀茂船山、正伝寺や霊源寺)
・松ヶ崎妙(妙:松ケ崎西山=万灯籠山、末刀岩上神社)
・松ヶ崎法(法:松ケ崎東山=大黒天山、妙円寺)
・鳥居形松明(上嵯峨仙翁寺山=万灯籠山=曼荼羅山、本願寺)
・大文字(東山如意ケ嶽、現存しない浄土寺というのが地名に残っている)
現在の「五山送り火」は上記五ヶ所で行われています。
送り火の山懐には社寺があるのが普通で、上の一覧にも「山名と寺社名」を分かる範囲で記載してあります。
ちなみに、厳密に言えば六ケ所あるのですが、松ヶ崎にある「妙・法」はひとつとして数えられています。
・一(葛野郡鳴滝村)
・蛇(大覚寺の北部)
・長刀(嵯峨観空寺谷町)
・竿の先の鈴(西山=松尾山、西京区付近とされる)
現在は実存しないながら、歴史資料には記載があるのが上記五ヶ所です。
特に「い」は明治初期まで行われていたと言われる送り火で、京都の送り火でも最大級だと言われていたものです。
幻の五山送り火「い」
上の写真は叡電「二ノ瀬駅」から見た山「安養寺山=あんようじやま」で、かつては「安養寺」という寺があったと言われています。
採石場(近畿粉砕石)がある「二ノ瀬トンネルの山」と言えばわかりやすいでしょうか?
ここが幻の五山送り火「い」の有力候補地と言われている場所で、送り火の山懐には社寺があると言われる条件にも一致しています。
これまで正確な位置は分かっていませんでしたが、2018年8月8日に、京都大学の正高信男教授(まさたかのぶお)が、この採石場(近畿粉砕石)がある山の標高100メートル付近に斜面をL字に削り取ったような跡(平坦な場所)を見つけたと発表し、ここが「送り火の薪を置いた場所ではないか」という説を発表しました。
そのため、これまで言われていた地点が幻の五山送り火「い」の場所である可能性が高くなっているのが最新の研究成果です。
歴史的資料を見ても、この「安養寺山」が幻の五山送り火「い」の有力候補地であることがわかります(拡大図)。
上の絵図『京都御絵図 文久新精』で、今の左京区「二ノ瀬」東側付近に「い」をかたどった送り火があったことが描かれているからです。
安養寺山には、ところどころに石が積み重ねられた場所が発見されており、そこが「火床(ひどこ)」という薪に火を付ける場所に似ているということもあって物的証拠も出て来ています。
また、18世紀中後期の絵図『京都絵図細見大成』にも、府道40号線の北にある山で「江文明神(江文神社)」へ向かう道の途中と地図に描かれています。
該当箇所は、やはり採石場(近畿粉砕石)がある山「安養寺山」です。
安養寺山に幻の五山送り火「い」があったとする説は位置的には確証の高い話と言えそうです。
ただし、別の資料では「標高800m、三条大橋からも見物することができたが、上賀茂の山中の山木の繁茂で見えなくなった」とあり(出典)、この有力候補地とはずいぶんかけ離れた記述もあるのですが、この「安養寺山」の最大標高は400mほどで京都市街地からは絶対に見ることができない場所です。
京都市内から見えるということであれば「向山」もしくは「神山」といった市原に近い山で行われていた可能性も否定はできません。向山のある市原には今でも8月16日に「市原ハモハ踊り・鉄扇」という盆踊りが残っており、市原近くの山で送り火が行われた後に踊ったと伝わっている民間行事が残っています。
そのため、これからさらに研究していかなければ、幻の五山送り火「い」の場所だと断定は難しいと言えるでしょう。
※(補足1)別資料『懐宝京絵図(安永3年、1754年)』では、二ノ瀬の東側に「い」の送り火は確認できません。
※(補足2)改正版とされる『京町絵図細見大成 天保改正(天保2年、1831年)』では、今回の地点より北側に「い」の送り火が記載されています。
※(補足3)『大成京細見絵図(慶應4年、1868年)』では、大きく場所が違っており、岩倉の実相院の南側に「い」の送り火が記載されています。
※(補足4)『精撰増補 京都詳覧図(明治11年、1878年)』では、静原より先(大原寄り)に「い」の送り火が記載されています。
※(補足5)地図上の現「賀茂川」は「岩ヤ川」という名称で記載されています。
※(補足6)「い」は「仮名がしら」と呼ばれていた。
幻の五山送り火「一」
かつての葛野郡鳴滝村にあったとされる送り火もあります。
それが幻の五山送り火「一」です。
全国の行事をまとめた『諸国年中行事(亨保二年、1717年)』に記載されているだけで正確な場所は分かっていません。
聖霊の送火、酉のこく、雨天なる時は翌日なり、大の字浄土寺村の上如意ケ嶽、妙法の字松ヶ崎村、いの字市原、釣舟西賀茂、鳥井西山、一の字鳴瀧の邊、此外諸方の山山に火をともすなり
場所とされる「葛野郡鳴滝村(かどのぐんなるたきむら)」は、今は「京都市右京区鳴滝」のことですが、鳴滝で寺院というと大根焚で知られる「了徳寺」界隈で、他にも「西寿寺」や「法蔵寺」といった古いお寺があり、すぐ東の宇多野には有名な「仁和寺」もあります。
この付近の山というと「御室八十八ヶ所霊場」がある山「成就山(じょうじゅざん)」くらいしか京都市内から見える山はありませんが、この界隈で送り火が行われたという証拠はありません。
鳴滝をもう少し高雄方面に向かった鳴滝白砂あたりであった可能性も否定できませんが、山間部に入るため京都市街からは見えない位置になります。
幻の五山送り火「蛇」
北嵯峨の「大覚寺」の北部にあったとされる幻の五山送り火が「蛇」です。
『山城国地割録』に葛野郡北嵯峨村に「蛇」の送り火があったと書かれているそうです。
現存する「鳥居形松明」の東側にあったと推測されており、 嵯峨天皇の「嵯峨山上陵」がある所(嵯峨山)だと推測されます。
しかし、次の「長刀」や現存する「五山送り火」のひとつ「鳥居形松明」が近すぎるため、本当に実在したのかは甚だ疑問ではあります。
幻の五山送り火「長刀」
もうひとつ「観空寺」に幻の五山送り火「長刀(なぎなた)」があったと『山城国地割録』で書かれているそうです。
観空寺は地名に「嵯峨観空寺谷町」などのように残っており、「観空寺観音堂」が「京都府京都市右京区嵯峨観空寺久保殿町12」に存在しています。
前述の「蛇」の送り火があった地と同一エリアであることから「蛇」と「長刀」は同一ではないかとされています(形も似たものになるはずです)。
また、すぐ近くに現存する「五山送り火」のひとつ「鳥居形松明(曼荼羅山)」もあって、「鳥居形松明、蛇、長刀」が狭い範囲に3つ横並びになってしまうことから、実在したという根拠は乏しいと言えそうです。
なお、写真の五山送り火「鳥居形松明」は鳥居本「愛宕神社」の鳥居を型どったものになっています。
幻の五山送り火「竿の先の鈴」
嵐山の渡月橋の南にある「松尾山」は複数の山の総称です。
松尾大社がある山で、すぐ北には「岩田山」と「嵐山」があり、もし実在したとすれば「嵐山名物」として相当有名だったはずなのですが記録がほとんど残っていません。
明治の「日出新聞(現・京都新聞)」の記事『京の大文字ものがたり』に「一乗寺にあった(明治24年記事)」とあり、さらに明治31年に再度記事になってはいるものの場所は「市原」となっています。
京都の京都市研究科である田中緑紅(本名:田中俊次)さんの著作によれば「葛野郡の西山にあった」とされており、大正時代までは実在していたようです。
そうであれば何らかしら記録があっても良いのですが、京都の謎として未だ解明されていない送り火となっています。
なお「竿の先の鈴」の意味は「やかましい」という意味です。
幻の五山送り火 まとめ
ということで、今回は「幻の五山送り火」についてまとめました。
幻というのは「い、一、蛇、長刀、鈴」の、かつて存在していたと言われている送り火のことです。
この中で可能性が高いのは「い(仮名がしら)」のみで、その他の送り火が実在したという証拠はありません。