2021年1月13日放送の『世界の何だコレ!?ミステリー』で戦国武将・明智光秀の「最後の11日間と親友に宛てた手紙」が紹介されると予告されています。今回は時系列で明智光秀の最後の11日間を写真付きで解説します。
本能寺の変(1582年6月2日)
1582年6月21日(旧暦:天正10年6月2日)、明智光秀は主君・織田信長を討つために「本能寺の変」を決行します。
その前日(6月1日の16時頃から随時)に光秀は領地の丹波・亀山城から当時は元本能寺町にあった本能寺に進軍します。
ルートは亀岡城から京都へと向かう山陰街道(古道)を通り、現在の国道9号に近いルートで京都へと向かいます。
保津町から水尾へ抜ける「明智越え」は使っていないようで、山陰古道沿いにあった篠村八幡宮で軍議を開いて重臣5名に初めて「謀反を起こす」と告げます。
現在の「旧老ノ坂峠」では、光秀は臣下に対して「敵は本能寺にあり」と告知しています。
その後、光秀の軍勢は山陰道沓掛(さんいんどうくつかけ)で休憩後に洛中へ向かい、洛西口や桂川を通り丹波口へと向かったと想定されます。
明智光秀の進軍ルートはこちらの記事「明智光秀が本能寺へ行く時に通った道」に詳しく書いてあるので後で読んでください。
さて、当時の本能寺は京都市中京区元本能寺町にありました。
上の地図は現在の元本能寺町ですが、本能寺は現在の「小川通」を中心に北は「六角通」南は「蛸薬師通」東は「西洞院通」西は「油小路通」に囲まれた立地にあった寺で、約120メートル四方あり外側には最大4メートルの幅がある堀(ほり)があったようです。
史跡「本能寺跡 石碑」は当時の本能寺の南端にあります。
亀岡城から距離にして約21キロ、(本能寺の解説によれば)本能寺の前には現在の本能寺門前に残る「日蓮聖人」の銅像があったそうです。
1582年6月21日(旧暦:天正10年6月2日)の早朝4時頃、本能寺に到着した光秀の軍勢3000騎は本能寺を包囲し焼き討ちにして織田信長を自害に追い込みます。
織田信長は明智光秀の能力を考えれば本能寺からの脱出は不可能だと考えたようです。
明智軍勢・安田作兵衛国次が長槍で織田信長を突き、織田の側近・蘭丸が駆けつけるなど緊迫の合戦であったと言います。
本能寺の変は明智光秀の勝利で終わりますが織田信長の首を明智光秀は見つけることができませんでした。
首が無ければ自分が討ち取ったことを証明できず、信長配下の武将や同盟国に対して納得させる材料がないことになります。
一説によれば、織田信長の首は信長の幻の弟(実の弟のように信長と家族同然であった)清玉上人によって運びだされ京都の「阿弥陀寺」に埋葬されたと伝えられています(実際に織田信長の墓があります)。
これについては別記事の「織田信長の幻の弟」の記事に詳しいので後で読んでください。
本能寺の変の翌日~5日後(6月3日~7日)
明智光秀は本能寺の変の翌日(1582年6月3日)に滋賀県の「瀬田唐橋」を修復するために瀬田川にいました。
京都から滋賀県へ行くには琵琶湖を渡るより、この橋を渡っていくルートの方が安全とされ「急がば回れ」の語源になった橋です。
明智光秀がこの橋を修復しようとしていたのは織田信長の居城「安土城」を目指していたからです。
光秀が安土城へ向かったのは城を乗っ取り、財産を没収して信長の財宝を分配することで「明智政権」として自分が新しい世の中をつくるための下地を作るためです。
明智光秀は橋を修復して安土城に3日滞在します。
明智光秀が3日間、この安土城にいたのはなぜでしょうか?
実は天皇の使いを待っていたからだと言われています。天皇から認められないとただの謀反人になってしまうからです。
実際に天皇からの使者が来て明智光秀を信長の後継者と認め、京都を守るように天皇から言われるのです。
羽柴秀吉との頭脳戦
本能寺の変の6日後(6月8日)から本格的に羽柴秀吉との対決色が高まっていきます。
秀吉の軍勢が姫路にまで戻ってきたことを光秀が知ったからです。
本能寺の変が起きたことは当日1582年6月21日(旧暦:天正10年6月2日)から翌日の6月3日には織田信長の家臣には伝わっていました。
家臣は光秀を討伐するために動きだしますが、一番早く動いたのが羽柴秀吉です。
織田信長が討たれたとの報に中国攻めをしていた羽柴秀吉は中国地方を支配していた毛利氏と和解して京都へと戻ります。
有名な「中国大返し」で、旧暦6月4日頃から10日間ほどかけて全軍を京都へと向かわせます。
距離にして約230キロメートル、旧暦6月13日昼頃に山城山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)の宝積寺に陣取ります。
ここで羽柴秀吉と明智光秀軍の副将・斎藤利三は「山崎の戦い」をすることになるのです。
羽柴秀吉は中国大返しの際に虚報「織田信長は生きている」と広めており明智軍に協力する武将は少なかったといいます。
羽柴秀吉は中国地方からスムーズに戻ってこれたのは、この「織田信長は生きている」という情報を他の武将が信じて羽柴秀吉の邪魔をしなかったからです。
明智光秀が親友・細川藤孝(幽斎)に宛てた手紙
一旦我等も腹立ち候へども、思案候ほどかようにあるべきと候。
然りといへども、此上は大身をいだされ候て御入魂こひねがう所に候事。
国の事、内々攝州を存じあて候て、御のぼりを相待ち候つる。
但・若の儀は思召寄せ候はばこれもって同前に候。指合いきっと思いつくべく候事。
我等不慮の儀存じ立ち候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。更に別条なく候。
五十日・百日の内には近国の儀相堅むべく候間、其れ以後は十五郎。与一郎殿などに引き渡し申し候て
何事も在ずまじく候。委細両人申さるべき事。
六月九日 光秀
このたびは私に味方して大身の大名になってもらえるようお願いします。
領地は兵庫を考えており味方になってもらえるのを待っています。
但馬・若狭は相談の上考えましょう。
このたびのことは他念なく、五十日・百日の内には近国も平定すると思います。
そのあとは自分は引退し長男の十五郎と与一郎殿(細川忠興)に譲ります。
六月九日 光秀
本能寺の変が起きた後、明智光秀の軍勢は「直属の家臣・近江衆・丹波衆・旧室町幕府衆」で構成されていました。
近江衆の士気は低かったようですが、旧室町幕府衆は士気も高く奮戦したようです。
明智光秀は婚姻関係にあった織田信長家臣の細川藤孝(幽斎)と光秀の娘(細川ガラシャ)と結婚していた細川忠興親⼦に手紙を送ります。
内容は「味方になってほしい」というものです。
細川藤孝・忠興は本能寺の変を聞き、織田信長が討たれたことを悲しみ髪を切ったとされており、明智光秀の申し出を断ります。
細川忠興の妻であり明智光秀の娘(細川ガラシャ)を幽閉し、明智光秀と関わらないと関係を拒絶したのです。
この手紙は東京にある「永青文庫」で2021年1月9日から一般公開されています。
光秀は「本能寺の変」を起こしたのは細川忠興を出世させるためだと手紙に書いています。
しかし、そこまで書いても大親友・細川藤孝は味方につくことはありませんでした。
実は羽柴秀吉は中国大返しをしながら細川藤孝にも使者を出して味方に引き抜こうとしていたのです。
本能寺の変から7日後(6月9日)、明智光秀は京都へと進軍します。
山崎の戦い(旧暦6月12日)
本能寺の変が起きた1582年6月21日(旧暦:天正10年6月2日)から10日後、旧暦6月12日に「山崎の戦い」が起こります。
羽柴秀吉の軍勢は「宝積寺」を本陣として旧西国街道に沿って陣取ります。
旧暦6月13日(明智光秀最期の日)、雨が降る大山崎で合戦が開始され明智軍は壊滅状態となります。
明智光秀は火縄銃を大量に準備して羽柴秀吉を待ち受けていたのですが、雨のために火縄銃が使えなかったからです。
明智光秀は戦線の最後方にあった「勝竜寺城」に籠城しますが(城内では火縄銃が使えるため)、部下の離反などもあり勝竜寺城を北側から脱出して滋賀県の居城であった坂本城を目指します。
羽柴秀吉は勝竜寺城の北側だけ空けていたようです。
というのも、ここで羽柴秀吉が天皇から認められた支配者である明智光秀を倒すと、秀吉が反逆者になってしまいます。
そのため秀吉は光秀をわざと逃がして、落ち武者狩りに合わせるように仕向けたのです。
その結果、光秀は「明智藪(京都市伏見区)」で落ち武者狩りに遭い自害することになるのです。
明智藪で明智光秀を襲撃したのは小栗栖(おぐるす)の百姓とも言われますが、最近の研究では織田信長の近臣であった小栗栖館の武士集団「飯田一党」であったというのが通説になっています。
明智光秀最期の日(旧暦6月13日)
本能寺の変が起きた1582年6月21日(旧暦:天正10年6月2日)から11日後の6月13日、明智光秀は最後の日を迎えます。
小栗栖(おぐるす)の武士集団「飯田一党」に襲撃され致命傷を負ったとも言われ、その場で自害したとも言われます。
実際には明智藪ではなく、田んぼの細道で襲撃されたようで、明智光秀の首は家臣により竹藪の溝に隠されたそうです。そこが「明智藪」と呼ばれており、明智光秀の首を隠したところというのが正確な解釈のようです。
しかし、翌日の6月14日に明智光秀の首は見つかってしまい「本能寺」で晒されることになるのです。
世界の何だコレ!?ミステリー 2021年1月13日 予告
世界の何だコレ!?ミステリー 2021年1月13日 予告は以下の通りです。
信長討伐もなぜ明智光秀は天下を取れず?運命を分けた最期の11日間に“武将X”との超頭脳戦が&本能寺の変、決行の理由が…親友に宛てた直筆の手紙に?▽何だコレ映像も
▽明智光秀は、日本史史上最大級のクーデター「本能寺の変」で主君の織田信長を討ったものの、天下を取ることができなかった。一体、なぜなのか…その謎をひも解く鍵は「本能寺の変」直後から、農民に殺されるまでの「最期の11日間」に隠されていた!そこで繰り広げられていたのは…ある武将との壮絶な頭脳戦!この「最期の11日間」には一体何が…運命を左右した「最期の11日間」の足跡を辿りながら「天下人」への夢半ばで命を落とした、光秀に迫っていく。そして、光秀が親友に宛てた直筆の手紙には「本能寺の変」を起こした理由が書かれていた!?歴史が苦手な方にも、きっとお楽しみいただける、光秀と本能寺の変!今回も番組でおなじみの「あばれる先生」が専門家と徹底調査!▽今回も、摩訶不思議なナゾ動画を大連発!「正体不明!上空に現れた謎の発光体」「晴れた日なのに…目の前に雷が落ちてきた!?」「まるでドラゴン!海で見つけた奇妙な生物」「仰天!トンネルでまさかの不運に見舞われた男」など、驚き満載の映像をたっぷりとお届け!