戦国武将・織田信長ゆかりの地が京都にはある
戦国武将・織田信長ゆかりの地が京都にあるのでまとめました。
阿弥陀寺
建勲神社(けんくんじんじゃ)
の三か所で「本能寺跡、阿弥陀寺、建勲神社」が紹介されることになっています。
では、これらの場所は織田信長とどのような縁があるのでしょうか。
織田信長が家臣・明智光秀に討たれた「本能寺の変」の場所
織田信長が家臣・明智光秀に討たれた「本能寺の変」の場所は京都です。
現在の本能寺は全く異なる場所で、当時の本能寺があったのは「京都府京都市中京区元本能寺南町(本能寺跡)」というところです。
上の写真の角を南へ入ったところにも大きめの石碑があり、この一帯がかつての本能寺であったことが知らされているだけです。
この石碑があるのは蛸薬師通というところですが、一本北の「六角通り」の「本能公園」を中心に「東:西洞院通、西:油小路通、北:三条通、南:蛸薬師通」の範囲が本能寺があった場所だとされています。
しかし、石碑のある元本能寺南町で1992年に発掘調査が行われて、本能寺の遺構が発見されます。
なので、この辺一帯にかつて本能寺が存在していたのは間違いありません。
織田信長の幻の弟である清玉上人が阿弥陀寺で織田信長を埋葬していた?!
討たれた織田信長は、その後どうなったのでしょうか?
普通であれば討った側である明智光秀により何らかの処置がされるはずですが、明智光秀は織田信長の遺骸を発見できませんでした。
その後、明智光秀を討った豊臣秀吉も織田信長の遺骸を探すものの発見することはできていません。
実は、京都の「阿弥陀寺」に遺骸が運ばれて埋葬されているのです。
天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変、その時に織田家と親交があった清玉上人が織田家の家臣もろともこの阿弥陀寺に埋葬していたと伝えられています。
阿弥陀寺では織田信長・信忠の墓は並んでいます。
すぐ隣には織田家の子孫の墓もあり、織田家ゆかりの寺であることには間違いありません。
明治時代に建勲神社を創建した、信長の大ファンとは
船岡山にある「建勲神社(けんくんじんじゃ)」も織田信長とゆかりが多い場所です。
正式には「たけいさおじんじゃ」と読むのですが、地元では「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。
この建勲神社の御祭神は織田信長。
この神社の創建を決めたのが明治天皇です。
明治天皇は「日本が外国により侵略されずに済んだのは天下統一や朝儀復興を進めた織田信長のおかげ」であるとし、健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建を決めたのです。
この決定により、東京と山形に建勲社が創建。
その後、東京にあった建勲社が京都の船岡山に移転したのが、現在の「建勲神社(けんくんじんじゃ)」です。
4年ほど前までは地元の人でも近寄らない静かな神社でしたが、刀剣乱舞の巡礼地となり、さらに近年の歴史ブームで着目されるようになりました。