今回の「京都案内」は、京都御苑に残る幕末の戦いの跡です。約150年前の幕末に起きた「禁門の変(1864年)」の時に残った「弾痕」です。弾痕が残っているのは「蛤御門(はまぐりごもん)」で、長州藩が薩摩藩・会津藩と戦った時の記憶が今でも京都には残っているのです。
ということで「蛤御門の弾痕」の写真をご覧ください。
補足:坂本龍馬が襲撃された近江屋が回転寿司店についてはこちらの記事で紹介しています。
京都御苑に残る「禁門の変」の歴史
地下鉄烏丸線「今出川駅」の南側には「京都御苑」があります。
京都の観光名所のひとつですが、ただただ広い敷地には一見して見学するような場所はないようにも見える場所です。
しかし、この京都御苑には観光客(特に若い方)が訪れる門があるのです。
それが「蛤御門(はまぐりごもん)」です。
京都御苑の「蛤御門」に行くと、だいたい若い観光客が守衛さんに何かを訪ねているのを見かけます。
守衛さんも分かっているのか、「蛤御門」には数名の守衛さんがいつもいるのですが、ここで観光客の方が守衛さんによく訪ねていることがあります。
「弾痕ってどこですか?」
実はこの「蛤御門」は1864年(幕末)に起きた長州藩と会津藩の激戦地で、今でもここに当時の戦いの記憶が残っているのです。
蛤御門の弾痕
守衛さんに尋ねると「ここですよ」と教えてくれるのですが、蛤御門を見ればどこに弾痕があるのかはすぐに分かります。
なぜなら、門の至る所に丸く凹んだ後が残っているからです。
1864年7月19日に中立売付近の「新在家門(=蛤御門)」で、長州藩が、薩摩藩・会津藩・桑名藩と衝突した場所です。
上の写真を見ると、当時の弾の跡が白くなって残っているのが分かると思います。
蛤御門が開いている状態で、左右の柱を見ると、白い大きな穴というか凹みがたくさんあります。
白いのはたぶん観光客が触っていくからだと思いますが、直径1cm強くらい、深さ1cm弱くらいの凹みが門全体にあります。
これが、1864年に起きた「禁門の変」の弾痕です。
弾痕があるのは正面だけではありません。
門の側面にあたる大きな柱にも同様の跡が残っているのですが、どこから撃ったのか分からないような所にも残っていました。
「禁門の変」で長州藩と会津藩が衝突した時には、門は開いていたのかもしれません。
以外と、扉の部分は弾痕が残っていませんでした。
残っているのは左右の柱の下部で、たぶん膝をついて鉄砲を構えていたのかもしれません。
蛤御門 の場所
蛤御門はちょうど京都御苑の西側中央にある門です。
烏丸通に面していて、丸太町駅もしくは今出川駅どちらかでも同じくらいの距離にあります。
行くと、ここだけ守衛さんとか観光客がいるのでだいたい分かりますが、幕末好きか何かロマンを感じている方も多いのでしょう。
実際のところ、幕末なんてロマンも何もないただの権力争いですが、150年前まで日本は内戦ばかりの国だったこともよく歴史を通じて知っておくべきことなんだと思います。
戦いというのは何であれ良いことではありません。
そういうことをきちんと理解した上で、戦史に興味を持つことが大事なんだと思います。