2019年9月7日放送の『ブラタモリ#142』は京都編で「天皇の住まいはなぜこの場所だった?」というテーマになっています。つまり「京都御所」がクローズアップされることになります。また、京都御所以外にも「冷泉家(れいぜいけ)、嵐電、出町桝形商店街」も予告映像に映っているので紹介されるのは確実です。
ブラタモリ 京都御所編が2019年9月7日放送
2019年9月7日のブラタモリは、また京都編が放送されます。
ブラタモリ#142 のテーマは「京都御所編 天皇の住まいはなぜこの場所だった?」となっており、予告では「京都御所、冷泉家(れいぜいけ)、嵐電、出町桝形商店街」の写真が掲載されていました。
冷泉家(れいぜいけ)
嵐電
出町桝形商店街
この予告を見て、やっと「謎」が解けました。
というのも、2019年7月13日に放送された『ブラタモリ#139 京都・西陣編』では、実際に京都で目撃されていたタモリさんの目撃情報で確認された場所のいくつかが放送されていなかったからです。
・三条西小路(山ノ内)の天井川
・出町桝形商店街
紹介されていなかったのは、主に2019年5月27日に巡った「西院駅、山ノ内、出町桝形商店街」です。
2019年9月7日のブラタモリでは、この放送されなかった場所が紹介されるということで楽しみです。
京都御所
14世紀から明治2年(1869年)まで天皇の住まいであった「京都御所」が、2019年9月7日放送『ブラタモリ 京都御所編』の舞台です。
「天皇の住まいはなぜこの場所だった?」をテーマに、タモリさんが京都御所やゆかりの場所を巡る放送になるそうです。
京都に都が遷都されたのは延暦13年(794年)の桓武天皇の平安時代です(平安京)。その時の御所(内裏)は今の京都御所から西へ約2kmのところにありました。
元弘元年(1331年)に光厳天皇が現在の京都御所で即位したのが今の京都御所の始まりです。
その時の御所は貴族の邸宅の一部を使った「東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかどでん)」と呼ばれる仮の御所(里内裏)でした。
では、なぜ御所は仮の御所(里内裏)を使用していた時期があったのでしょうか?
その理由は平安京造営以降、御所は度重なる焼失の難に遭っていたからです。
天皇はそのたびに公家(摂関家)の家に居候し、そこを仮の御所(里内裏)をしていたのです。
最初の焼失は天徳4年(960年)のことですが、嘉禄3年(1227年)までに16回も皇居は焼失しているのです。
この16回目の焼失以降、御所は再建されずに、仮御所であった東洞院土御門殿で、元弘元年(1331年)に光厳天皇が即位。
この時点で正式な御所(皇居)ということになるのですが、南北朝問題で天皇家が北朝と南朝に分かれていたことから、名実共に正式な皇居となったは明徳3年(1392年)のことでした。
このように、現在の皇居が今の場所に決まったのは、度重なる焼失の末に仮御所であった東洞院土御門殿を正式な皇居としたことに始まります。
そして、以降は500年もの間、ここが皇居(御所)になるわけですが、やはり「防災」というのは重要な課題だったようで、御所が鴨川の西すぐのところにあるのは防災用水の取水するのに近かったというのが理由です。
なお、現在の建物は幕末の安政2年(1855年)に再建されたものなのですが、これも嘉永7年(1854年)の大火により焼失したからです。
そのため、現在の内裏は「安政度内裏」とも呼ばれています。
嵐電と三条西小路(山ノ内)の天井川に見る高低差
さて、2019年7月13日に放送された『ブラタモリ#139 京都・西陣編』には放映されなかった場所「嵐電と三条西小路(山ノ内)の天井川」が、2019年9月7日のブラタモリ#142 「京都御所編 天皇の住まいはなぜこの場所だった?」で、やっと放送されます。
この三条西小路(山ノ内)は他より小高い場所にあり嵐電も坂を登っていく様子を見ることができる場所です。
元々は「御室川」と「紙屋川」という天井川(周囲の土地より川の底が高い川のこと)があって、その名残がこの三条西小路(山ノ内)を走る嵐電の高低差です。
なお、この天井川の下には幕末に嵐山から京都内に向けて開削された人工川(運河=物資を運ぶ川)「西高瀬川」も流れていました。
「御室川」と「紙屋川」が周囲の土地より高い位置にあった理由は、紙屋川上流から流れてくる土砂の量が多かったからです。
平安時代から土砂の量が多い川だったようで、土砂がどんどん堆積して周囲よりも高い位置に川底ができたのです。
ただ、京都御所とはあまり関係がないため、高低差好きな『ブラタモリ』のオプション訪問だった可能性があります。
※番組では天皇が右京区には住まなかった理由として山ノ内の地形を見に行ったとされていました。天井川の水害を避けるように右京区は衰退し、左京区が繁栄していくのですが、天皇家も左京区を選んで住んでいたということです。ただ、鴨川も暴れ川として知られており、なぜ左京区に住んだのかということで「出町桝形商店街」へ向かっています。
出町桝形商店街には「御所用水」の痕跡がある?
タモリさん御一行、実は「出町桝形商店街」でも目撃されていましたが、2019年7月13日に放送された『ブラタモリ#139 京都・西陣編』では・・・・
これっぽっちも出町桝形商店街は映りませんでした。
でも、なぜタモリさんは出町桝形商店街を歩いたのでしょうか?
番組では出町桝形商店街が鴨川から見て上り坂になっているのを見に行っており「河岸段丘」があったのを見に行ったようです。
鴨川は急な流れによって、どんどん水位が下がって河岸段丘が平安後期に形成されたそうです。
すると、洪水が起きにくくなるので左京区に住む人が増えて繁栄していったとのことでした。
では、なぜこの場所に御所は定着したのでしょうか。
御苑内にも防火用水や生活用水のための川(出水の小川)や池があります。
御所は幾度もの災害に見舞われてきたのは前述の通りですが、防火用水や生活用水を近くの川からひいていました。
出水の小川は1981年に作られた新しいものですが、これも用水のひとつです。
その近くの川というのは、もちろん鴨川のことです。
鴨川から御所へは「御所用水」と呼ばれる水路がかつてあり、取水しやすい場所であったのが今の場所に御所がある理由です。
水路は「相国寺 開山堂」から御所の北側にある池へとつながっていました。
冷泉家(れいぜいけ)
さて、タモリさん御一行は御所の北西隣にある「冷泉家(れいぜいけ)」にも立ち寄っています。
通常は非公開で一般人は立ち入ることはできません。
冷泉家は公家であった藤原定家の子孫です。
現存する最古の公家宅としてたまに特別公開されているのですが、それで立ち寄ったものと思われます。
でも、なんで冷泉家に立ち寄ったのでしょうか。
冷泉家と御所の関係は?
戦国時代以降は時の将軍との関係により地方に下向していた冷泉家は徳川家康の時代に京都に戻ってきたのですが、その時には公家町に敷地がもうなくて、今の御苑の外に邸宅が作られました。
それが返って良かったのか、明治以降に公家町が御苑(公園)に整備される際に取り壊されることなく残ったのです。
また、冷泉家は明治に天皇家が東京へと移った際に留守居役を任されて、今の地に残ったとされます。
ということで「現存する最古の公家宅」なんです。
ブラタモリ#142 2019年9月7日 予告
ブラタモリ#142 2019年9月7日 予告は以下の通りです。
“令和”改元でも注目を集める京都御所。約500年ものあいだ天皇の住まいだった京都御所はなぜ平安京の隅にある?タモリさんが京都をブラブラ歩いてその謎を解き明かす!
「ブラタモリ#142」で訪れたのは京都市の中心部。京都御苑の中にある京都御所は14世紀から明治はじめまで天皇の住まいであった。京都御所が今の場所にある理由を探る▽なぜ天皇家は移動を繰り返した?▽路面電車・嵐電に乗ってひもとく高低差の秘密とは!?▽京都御所の場所が定着したのは鴨川がカギ?商店街を歩いて確かめる▽鴨川の上流から御所まで引かれた「御所用水」の痕跡をたどる▽宮廷文化を今に残す冷泉家を訪ねる。