京都に平将門の首塚があると言われる場所があります。平将門の首塚といえば東京の大手町にある心霊スポットが有名ですが、その地は平将門の首が京都から飛んで行って落ちた場所とされるところです。そう、京都には飛んでいく前の平将門の首塚があるわけです。
では、その平将門の首塚は京都のどこにあるのでしょうか?
将門塚の首はどこから飛んできた?
東京にある「将門塚(しょうもんづか)」、ここは平安時代に関東の豪族だった平将門の首が胴体を求めて空を飛んで、東京のこの地に力尽きて落ちてきたという伝説が残る場所です。
平たくいえば「平将門の首塚」で、ここまでは有名な話です。
しかし、その首がどこから飛んできたか知っているでしょうか。
いわゆる、平将門の首が落ちたのがゴールだとすれば、そのスタート地点となる場所のことです。
歴史に詳しいうちの困ったちゃん温泉担当によれば、その平将門の首が飛んで行った場所というのが・・・・
温泉担当 「きょ!きょきょきょょょょょぉぉぉ京都なんだな!(∩º﹏º∩)」
本当ですか?(笑)
なんでも「京都」に結びつけるのが、このコンテンツ(京都秘境ハンター)の悪い癖です。
でも、この平将門の首塚が京都にあったと言われている場所があるのです。
それが・・・・
膏薬辻子(こうやくのずし)です。
膏薬辻子(こうやくのずし)には平将門の首塚があった?
ということで、温泉担当と膏薬辻子(こうやくのずし)までやって来ました。
辻子(ずし)というのは突き抜けている道のことです(路地は行き止まり)。
ただし一直線の突き抜けている道は「図子(ずし)」と書き、膏薬辻子(こうやくのずし)のようにクランクしている道は「辻子(ずし)」と書きます。
・辻子(ずし) 反対側の道へ突き抜けているが途中でクランクしている
・図子(ずし) 反対側の道へ突き抜けている
場所はこちら、烏丸駅から四条通を西へ少し歩いたところにあります。
とても京都らしい風情が残る場所で、京都の繁華街にも近く、ここにはゲストハウスが集中していて京都観光の拠点にするにはもってこいの場所と思います。
ここは高僧であった空也が道場を開いた場所で、さらに空也は平将門の首がさらされた場所にその道場を建てて供養したとも言われているのです。
そのため、この地は「クウヤクヨウ(空也が供養した土地)」と呼ばれ、それがいつしか「コウヤク」と呼ばれるようになり、江戸時代には「かうやくの辻子」と呼ばれていました。
これが膏薬辻子(こうやくのずし)の名前の由来です。
平将門の首は関東から京都に運ばれ、平安京の都大路(一番の大通り)と東の市で獄門となったと言われています。
平安京で一番の大路は「朱雀大路」のことで、膏薬辻子があるのはもっと西側の西洞院大路です。
東の市というのは「西本願寺」にあった市場のことで、今で言う京都水族館の北東エリアのことなので、この言い伝えの場所とは異なります。
しかし、天明7年(1787年)に刊行された江戸時代の有名な観光名所を集めた書物「拾遺都名所図会」によれば、天慶3年に討たれた平将門の首がこの膏薬辻子でさらされたとあります。
そのため、ここで首がさらされたかは定かではありませんが、高僧であった空也が膏薬辻子で平将門を供養するために堂を建て、石に目印に置いたのがこの膏薬辻子(こうやくのずし)であるのは間違いなく、その場所は「神田神宮(神田明神)」と呼ばれてたのも事実です。
京都にも平将門を祀った神田明神がある(京都神田明神)
膏薬辻子には、東京にある平将門を祀った神社「神田明神」の名前を持つ神社があります。
それが「京都神田明神」です。
現在の京都神田明神は移設・新設されたものですが、以前はお向かいのやや南側にある民家の壁にあった小さな祠が京都神田明神で「神田神宮(神田明神)」と呼ばれていました。
近年に東京の神田明神から平将門を勧請して「京都神田明神」と名乗っていますが、ここが平将門の首塚があったとされる場所です。
外には鳥居、中には空也が置いたとされる石と祠があります。
この地は江戸時代には平将門の祟があるとも言われていた名所ですが、今ではあまり知られていない隠れたディープゾーンとなっています。