今回の「京都案内」は、京都市北区にある「小野篁・紫式部の墓」の紹介です。紫式部といえばユネスコ登録されている世界的な偉人ですが、なぜかその墓所はあまり有名ではありません。また、なぜか「小野篁(おののたかむら)」の墓の真横にあるのです。
閻魔大王の補佐をしていたという伝奇がある小野篁と何か関係があるのでしょうか。
京都には小野篁・紫式部の墓が並んでいる場所がある
今回の「京都案内」は、京都市北区にある「紫式部・小野篁(おののたかむら)」の墓地を見に行ってきました。
紫式部は、誰もが知る女性歌人で『源氏物語』の作者だと言われる超有名人です。
そして、もうひとり小野篁も「六道珍皇寺の井戸から冥土へ通っていた」とされる役人で、夏の京都を扱う異世界ツアーなどの番組では常連とも言える人物です。
その有名な二人のお墓が、京都市北区の「堀川北大路」にあるのですが、実はここあまり知られていない名所なのです。
小野篁・紫式部の墓を見に行きました
北大路堀川の交差点を南、島津製作所の工場があるのですが、その敷地に食い込むようにあるのが「小野篁・紫式部の墓」です。
敷地の入口には「紫式部墓所・小野篁卿墓」と書かれており、これだけの有名人が並んでいる墓所というのはなかなか珍しいと言える場所です。
しかし、こちら・・・・
実は有名ではないので、普段からヒッソリとしています。
観光客が来ることも稀で、ここは地元なので何度も行っていますが、他の方に会った試しはありません。
墓所は、島津製作所の敷地に食い込むように存在していますが、堀川通から入れるし、工場の敷地とはつながっていないので、普通に観光することができます。
それでは、実際にふたりのお墓を見てみることにしましょう!
紫式部の墓
「紫式部の墓」は有名人の割には、ヒッソリとした場所に存在していました。
周囲は囲まれており、2つの墓があるだけです。
この辺りは「蓮台野(れんだいの)」という地で、貴族などのお墓があった場所(往古葬送地)です。そもそも、この北側も「紫野」といい貴族の遊猟地であった所です。
こういった場所は、清水寺のある「鳥辺野(とりべの)」が有名で、嵐山の北にある「化野(あだしの)」も観光地になっています。
しかし、この「紫野」は「紫式部の墓」があるのに有名ではありません。
小野篁の墓
すぐ隣には「小野篁の墓」があります。
こちらもテレビの「京都魔界ツアー」などをテーマにした番組では、まず取り上げられる「小野篁(おののたかむら)」のお墓です。
「六道珍皇寺の井戸から冥土へ通っていた」とされる役人で、閻魔大王の補佐をしていたとも伝説がある人物です。
小野篁の墓は紫式部より200年は古いものですが、なぜ隣にあるのでしょうか。
紫式部の墓と小野篁の墓はなぜ隣にあるのか
『源氏物語』というのは架空の物語で、これは仏教で言うところの「嘘をついてはならない」という戒めに反しているものです。
また、能の演目にもある「源氏供養」では、紫式部が『源氏物語』で好色を書いたために地獄へ落ちたという話もあるのですが、地獄といえば小野篁です。
「源氏供養」は、地獄に落ちた紫式部を救済するというストーリーなのですが、そこで閻魔大王に顔が利く小野篁が登場して、紫式部を助けるという話になっているのです。
こんな話が出てきているのは、この時代には紫式部の評価は良くなかったことを表しています。
しかし、人気のあった『源氏物語』を擁護するかのように「源氏供養」という紫式部を救済するような話も生まれています。
この「源氏供養」のために、紫式部の墓が小野篁の墓の隣に埋葬されたという説もあります。
しかし、「源氏供養」は紫式部の没後(鎌倉時代)伝承であるため、この話はにわかに信じがたいものがあります。
もちろん、後からどちらかの墓が移された可能性もありますが、資料などが残っているわけでもありません。
小野篁・紫式部の墓 基本情報
さて、「小野篁・紫式部の墓」への行き方ですが、地下鉄烏丸線「北大路駅」から、京都市バス「204・205・206系統」の「金閣寺・西大路四条行き」へ乗車して「北大路堀川」で下車するのが近いです。(歩いても行けます)
堀川通の反対側には最近できたセブンイレブンがあるので目印になります。
もし、島津製作所の入口まで行ってしまったら行きすぎなので戻ってください。
ちなみに、紫式部は晩年には大徳寺の別坊(雲林院百毫院)で過ごしていたとされています(墓所の北側)。
紫式部の晩年は資料もなく謎とされてきましたが、墓所の場所については源氏物語の注釈書『河海抄』に「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と記載があるので、ここであることは確かでしょう。
京都府京都市北区紫野西御所田町