今回の「京都案内」は、三条界隈で見られる幕末・明治維新の遺跡です。京都は新選組のいた幕末「倒幕運動」が起こった場所でもありますが、幕府側・天皇側が暗闘したのが主に三条というエリアです。
この三条には「幕末の倒幕運動と明治維新」の跡地がたくさんあるんです。
京都・三条「幕末の倒幕運動と明治維新」遺跡(跡地)
・三条大橋の刀痕
・池田屋跡
・坂本龍馬寓居之趾
・近江屋跡
京都は日本の都(中心)であったことから「寺社仏閣、発祥の地」などの歴史的遺構(史跡)や建造物が多く残る町です。
京都市内を歩けば、そこらかしらに歴史を感じるものが見られます。
京都を訪れる観光客の皆さんも、そんな京都に魅力を感じていらっしゃているものと思いますが、今回は京都市内で「幕末の倒幕運動と明治維新」に関係する史跡をまとめました。
そう、新選組や坂本龍馬といった有名な人々に関係する場所です。
高山彦九朗 皇居望拝之像
京阪「三条駅」に到着すると、すぐ目の前にあるのが「高山彦九朗 皇居望拝之像」です。
三条は東海道五十三次のスタート地点で、いわゆる都の入口です。
そこにあるのがこの像で、これを見たがる方もいらっしゃるかもしれません。
この銅像の人物は、1747年生まれで群馬県出身の高山彦九朗という勤王思想を説いて全国を歩いた人なのです。
高山彦九朗は京都に5回来て、そのたびに京都御所に向かって拝礼したとされています。
しかし、そこが重要ではなく、彼が「尊王攘夷運動」から「倒幕」に至る歴史の中で思想的な中心にいたことが歴史的には重要でしょう。
要するに明治維新の勤皇の志士たちに影響を与えたのが「高山彦九朗」という人なのですが、そういったことは一切書かれていないので、あまり知られていない隠れスポットとなっています。
三条大橋
三条大橋は東海道の入口で、京都の実質的な玄関とも言える橋です。
今の橋は1973年(昭和48年)に作られたものですが、欄干部分などは木造でシロアリや腐食でボロボロになっています。
ここには幕府の高札を掲げた「高札場跡」と「三条大橋擬宝珠刀傷跡」が残っています。
京都の入口ということで『東海道中膝栗毛』では江戸からお伊勢参りに来た「弥次郎兵衛と喜多八の像」もあります。
話自体はヤジさんキタさんが仕事に失敗して、いわゆる国道1号(旧東海道)を江戸から伊勢神宮まで「自分探しの旅」をするという話なので京都はあまり関係ありません。
そもそも『東海道中膝栗毛』の作者は京都に来たこともありませんので、想像で京都を書いたものですね。
三条大橋擬宝珠刀傷跡
その同じ「三条大橋」の南北の欄干にある「擬宝珠」には1864年「池田屋騒動」の生々しい跡が残っています。
幕末1864年7月8日に新選組が三条木屋町の旅館「池田屋」で、尊王攘夷派(長州藩・土佐藩)を襲撃した際についた刀の跡です。
ここ意外と見落としがちなのですが、当時の記録が今でもあるわけで、なかなか見ごたえのあるスポットです。
橋の南北に二か所残っており、西詰の南側2本目の写真です。
佐久間象山 大村益次郎遭難の地
三条大橋を渡って「三条名店街」(河原町通)方面に向かって少し歩くとあるのが「佐久間象山 大村益次郎遭難の地」です。
佐久間象山は「勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰」を教育した「開国派」の人物です。
開国派とは「徳川幕府・薩摩藩」のことですが、幕府は外国からの圧力で開国に屈していた時期です。ただし、開国することで国力をつけようと画策していました。
しかし、尊王攘夷が盛んになってきて(後の討幕運動)、幕府は天皇と幕府を密接にする「公武合体」を画策しだします。
佐久間象山は幕府から「公武合体」について相談を受け上洛していたのですが、尊王攘夷派に襲撃されます。ちょうど「池田屋事変」で新選組(幕府側)が尊王攘夷派を襲撃した後の出来事です。
もうひとりの大村益次郎は明治政府の兵部大輔だった人なので教科書でも習いますが、彼は明治の近代軍隊を創設した人でもあり、それが士族の不満をかって襲撃されました。
池田屋跡
さらに「三条名店街」(河原町通)方面に向かうと「池田屋跡地」があります。
こちらは「池田屋騒動」の跡地で、倒幕派・尊王攘夷派(長州藩・土佐藩・肥後藩)が新選組の屯所を襲撃するために集合地点としていた旅篭(はたご=宿屋)ですが、新選組が1864年7月8日に「池田屋」を先に襲撃したのです。
この「池田屋」では尊王攘夷派が祇園祭の前に御所を襲撃して「久邇宮朝彦親王」を幽閉し、孝明天皇を長州へ連れ去る談義がされる予定にもなっていたからです。
それを事前に察知した新選組(京都守護職)が池田屋を襲撃したのが「池田屋事変」です。
尊王攘夷派とは天皇中心に外敵を打ち払うという考え方で、今でも似たようなことを主張している人は多く見ますよね。
1864年だと開国派「徳川幕府・薩摩藩」に、鎖国派(尊王攘夷)「長州藩」の対立があった時期で、土佐藩からも一部尊王攘夷派が参加していました。(同じく土佐藩出身の坂本龍馬は池田屋事変には関係なく脱藩して倒幕運動をしていました)
ただし、1865年頃から尊王も攘夷もなんかどうでもよくなって「倒幕運動」に変わっていきます。
現在は、居酒屋「はなの舞」さんが営業中で、今は史跡の説明案内板が残るだけですが、店内は新選組をモチーフにした楽しいお店となっています。
坂本龍馬寓居之趾
池田屋の南側、坂本龍馬の海援隊京都本部があった場所が「坂本龍馬寓居之趾」です。
こちらは当時から「酢屋」という材木商があった場所で、坂本龍馬はここに下宿していました(坂本龍馬居住地趾とも言えます)。
建物は当時とはだいぶ違いますが、今でも酢屋(材木商)が残って営業されています。
近江屋跡
京都見廻組という幕府の自警団であった「佐々木只三郎・今井信郎・渡辺篤」が「坂本龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉」を襲撃したのが「近江屋(醤油商)」です。
有名な「寺田屋事変」はまた別の話です。
お龍の話で有名な「寺田屋」は伏見区にあり、伏見奉行が薩摩藩士を語る怪しい浪人が寺田屋にいるということで捕まえに行ったところ、逆に坂本龍馬に襲われた事変です。
1866年 寺田屋事変
1867年 近江屋事変
ここでは、中高生の修学旅行と思われる学生服姿の子供達をよく見かけ、タクシー運転手さんが観光案内で連れてくる観光スポットにもなっています。
でも、実は「近江屋跡」ではないのです(後述)。
近江屋というのは土佐藩の出入りの醤油商人「井口醤油店」で、坂本龍馬と親交があったことから、坂本龍馬は近江屋を隠れ場所にしていました。
そのため、慶応3年(1867年)11月15日に土佐藩の海援隊長 坂本龍馬と陸援隊長 中本慎太郎、さらに山田藤吉が十津川郷士と称する集団に襲撃されたという場所です。
ただ、十津川郷士は尊皇攘夷派であり坂本龍馬と中本慎太郎を襲撃する理由はなく、実のところは新選組が襲撃したという説がその当時から有力でした。
実際に、坂本龍馬の仇討ちのために、京都油小路の旅籠「天満屋」にいた新選組を十津川郷士が襲撃する事態も起きています。
そのため、実際に坂本龍馬を襲撃したのは幕府の自警団(京都見廻組)の「佐々木只三郎・今井信郎・渡辺篤」という説が最近では有力です。
本当の「近江屋跡」は隣にある「星乃珈琲」の場所
さて、前述した件ですが・・・・
厳密にいえば近江屋は現在の「星乃珈琲店 河原町店」の場所というのが正確な情報です。
この場所は「近江屋(井口醤油店)」と北隣りにあった「井筒屋(骨董商)」が並んで存在していました。
大正13年に河原町通の拡張工事があり、近江屋(井口醤油店)は取り壊しとなるのですが、その近江屋(井口醤油店)があった場所の一部(道路にならなかった部分)を北隣りの「井筒屋(骨董商)」が買い取りしたのです。
その井筒屋(骨董商)は自店舗を南側の近江屋まで拡張し、その時に「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の石碑を立てたのですが、井筒屋の玄関にそれを設置したのです。
その時点では確かにその場所は「近江屋(井口醤油店)」と言える場所だったのですが、時代が変わり近江屋(井口醤油店)の場所には「星乃珈琲店 河原町店」が開業して、また別の店舗となりました。
そのため、石碑だけは「かっぱ寿司」の側に残って、そこが「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」となったのです。
よって、正確に言えば・・・・
近江屋跡は「星乃珈琲店 河原町店」の方なのです。
京都・三条大橋「倒幕運動」の跡地 まとめ
幕末の京都は「倒幕運動」で幕府側・討幕側が暗躍した土地でもあります。
特に京都の入口である「三条」(今でも繁華街)には倒幕運動に関係する遺跡が残っています。
実際に歴史を感じられる場所は少ないですが、三条大橋の新選組が付けたとされる刀跡は今でも見られる歴史を語る証人です。
三条名店街からいくつもの商店街がつながっており、そこを訪れる観光客はたくさんいますが、今回紹介した遺跡は意外とスルーされており見過ごされていますが、全部がついでに見られる場所にあるので、ぜひ一度に全部見て回ってみてください