今回の「京都案内」は「京都から最も近い田園地帯」である「北嵯峨」を歩いてきました。初夏の時期は田んぼが緑に染まり、広沢池の周りには花が咲いています。1年の中でも一番キレイな時期です。
このあたりは観光客もほぼ来ないのですが、散策するには良い場所です。
北嵯峨の田園エリア(京都)
今回の「京都案内」は、右京区の「北嵯峨エリア」の初夏の風景を紹介します。
いわゆる「広沢池」近隣に広がる田園地帯のことなのですが、京都の町中から車で30分ほどで素敵な田園風景が見られる場所でもあります。
ちなみに嵯峨の上だから北嵯峨です。
場所的には府道29号の北側だと思ってもらって良いと思います。
このエリアは、かつで『ブラタモリ』でタモリさんが古墳を巡った場所です。(ブラタモリについてはこちらが詳しいです)
平安時代には「秦氏(はたうじ)」が百済から渡来し帰化した「太秦」の近くでもあることから、古墳が多く残っています。
北嵯峨六代芝町
嵯峨釣殿町
嵯峨大沢落久保町
北嵯峨八丈町
北嵯峨洞ノ内町
北嵯峨赤阪町
北嵯峨山王町
広沢池
スタートは西隣にある「広沢池」からです。
では、「広沢池」とはどのような池なのでしょうか?
Wikiでは平安時代中期に989年に「遍照寺」の庭にある池として作られたと書かれています。
平安時代の中期、989年(永祚元年)に遍照寺の建立にあわせ庭池として本堂の南に造営されたとも言われている。
ただ、この解説はちょっとおかしくて「本堂の南に」と書かれていますが、今は「遍照寺」が広沢池の南にあります。
それに周囲1.3kmにもなる大きな池が、わざわざ寺の池として造営されるとも思えません。
まず、今の「遍照寺」の場所は江戸時代に再建された場所で、もともとは「大覚寺」の東側(広沢池の北)にありました。
場所的な話は辻褄が合いますが、やはり寺の池としてわざわざ造営されるとも思えません。
そこで「遍照寺」の公式サイトを見ると「寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものである。」と書かれていました。
遍照寺は十世紀末(989年)平安時代中期、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものである。
つまり、遍照寺が出来た頃には広沢池があったわけで、その湖畔に作られたのが「遍照寺」です。
広沢池というのは1000年以上も前から存在していた池であるわけです。
そういうこともあり、百済から渡来し帰化した「秦氏(はたうじ)」が作ったものだという説もあったりします。
嵯峨釣殿町
広沢池の入口「釣殿町」には「児(ちご)神社」があって、そこから眺める風景が「北嵯峨」の風景の中では一番だと思います。
「釣殿」というのは、先ほどの「遍照寺」が広沢池の北にあった時代、ここで「釣りをする場所」があったからです。
田んぼの中には木で覆われた土盛りがところどころに見えますが、それが古墳です。古墳は大きなものや広い石室のものがあって、当時は相当な権力者がいたと推測されます。(北嵯峨の古墳についてはこちらが詳しいです)
後宇多天皇陵
広沢池の北に「後宇多天皇陵」があります。
後宇多天皇は1267年~1324年で、いわゆる鎌倉時代の天皇です。
大きな池がある珍しい古墳ですが、「蓮」が浮かぶ池として知られています。(ただし、上の写真では「蓮」は見えません)
では、なぜ池があるのでしょうか?
ここは正式には「蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)」とも呼ばれるのですが、後宇多天皇は先に「蓮華峰寺」というのを作り、そこに「五輪塔」を建てて、塔を自らの陵としたからです。
周辺には「長刀坂古墳群」があり、かなりの古墳が密集していたりする場所でもあります。
北嵯峨赤阪町
後宇多天皇陵の南は「北嵯峨赤阪町」です。
農家さんの民家などが散在している地域で、遠方には民家が見えます。
赤阪は北区衣笠にもある地名ですが、急な坂の多い場所です。東京の「赤坂」も坂の多い場所です。
しかし、こちらの「赤阪」には坂らしきものはありません。
東京の「赤羽」のように赤土の土地があったのかもしれません。
北嵯峨六代芝町
広沢池の方に戻ると「北嵯峨六代芝町」があります。
ここには野菜無人販売所があり、近隣では野菜を栽培されている農家さんがあります。
「きゅうり・しそ・なす・トマト・紫玉ねぎ」などが100円~200円で販売されています。
「京都から最も近い田園地帯」の初夏
ということで、今回は「京都から最も近い田園地帯」の初夏を見に行きました。
初夏の北嵯峨は田植えが終わり、稲が実る前の「緑豊かな」風景を見ることができます。
蝶が飛び(ハチもいますが)、田んぼの脇に咲く花が彩を添えています。
初夏の北嵯峨は1年の中でも一番キレイな時期なので、今のうちに散策するのが良いと思います。