京都の難読地名「東一口」は読み方・由来などはネットに情報がたくさんあるものの、そこがどんな場所なのかを伝える情報はほぼありません。今回、2021年1月11日放送のテレビ番組『四季彩キッチン』で京都の難読地名「東一口」で栽培される野菜が紹介されるそうなので、この機会に「東一口」がどんなところか写真で解説したいと思います。
難読地名 東一口 の聖護院大根が『四季彩キッチン』で紹介
2021年1月11日放送のテレビ番組『四季彩キッチン』で京都の難読地名「東一口」で栽培される野菜が紹介されるそうです。
番組は林修先生が「旬の食材」を入口に日本の農業の「いま」をプレゼンテーションするという内容です。
その紹介される野菜というのが聖護院大根。
東一口がある久世郡久御山町(くせぐんくみやまちょう)では、約200年前から栽培が始まったといわれている冬の代表的な野菜です。
尾張の国(現在の愛知県西部)から奉納された長大根を京都の農家が土壌の浅い京都・聖護院あたりで栽培するうちに丸い大根になったと言われていて、見ためが丸いのが特徴的です。
では、先ほどから出てくる地名「東一口」ですが、これ読めるでしょうか?
普通に読むと「ひがしひとくち」で、これは間違いではないものの正式には別の読み方があります。
難読地名 東一口 の読み方と由来
難読地名 東一口 の読み方は「ひがしいもあらい」です。
知らないと絶対に読めませんし、読めなくても仕方のない地名です。
でもなんで「一口=いもあらい」と読むのでしょうか?
東一口がある久御山町の説明ではこのように解説されていました。
かつてここには昭和16年に干拓で姿を消した東西4km、南北3km、周囲16kmにおよぶ巨椋池(おぐらいけ)がありました。一口は巨椋池の西岸堤防(大池堤)付近をさし、現在の東一口・西一口にその地名を残しています。一口は中世以降の資料にみえ、淀とともに京都南部における京都への入口として、合戦のたびに重要視された池でありました。
「いもあらい」の語源は、巨椋池漁師の生業を浄化する「忌み清まる」、つまり「イミハライ(斎払い)」から「イモアライ」という語に転訛したものと思われます。一口は巨椋池干拓以前は北・東・南の三方が巨椋池とその付属する池によって囲まれ、西の一方のみが宇治川の堤防に続いていました。漢字の一口は、この土地の立地状況を正確に表しているといえます。
地名として土地を呼ぶ場合「ヒトクチのイモアライ」と呼んだと思われます。もともとヒトクチは地形の状況を表す語であったものが、のちにヒトクチ(一口)と書いただけでイモアライと読ませるようになったと考えることができます。
行政の説明では分かりづらいので簡単に説明します。
元々、この土地は「芋洗(いもあらい)」と呼ばれていた土地でした。その由来は前述した行政の説明通りです。
平安時代からここには巨椋池という巨大な沼地があったのですが、豊臣秀吉が巨椋池に流れこんでいた宇治川の流れを変えるために巨椋池の各所に堤防を作ります。
その際に唯一、宇治川と巨椋池をつなぐ地点を「一口」と呼んだのです。
ひとつだけの入口だから「一口(ひとくち)」というわけです。
ただ、この土地の呼び名は「いもあらい」であるため「ひとくちのいもあらい」などと呼ばれていましたが、後に漢字の地名として「一口」だけが残り、読みは「いもあらい」だけが残ったというのが難読地名「東一口」の読み方と由来だと言われています。
東いもあらい口から東一口地区を巡ってみる
では、東いもあらい口から東一口地区を巡ってみましょう。
東一口に入る入口は現在は国道1号線の「東一口橋(地図)」か久御山ICのところにある「東いもあらい口(地図)」から入るのが分かりやすいです。
個人的におすすめなのは「東いもあらい口」から入るルートです。
理由は田園風景が見られるからで、今の時期であれば聖護院大根の収穫風景を見ることもできるからです。
東一口橋
田園風景の中を進むと九条ネギの収穫も行われていました。
最初の交差点を右へ、その先が東一口地区の集落で入口に「東一口橋」というのがあります。
国道1号沿いにも「東一口橋」がありますが、こちらが古くからある「東一口橋」です。
東一口橋の先には集落が見えます。
ここが「東一口(ひがしいもあらい)」で、古い住宅が立ち並ぶ歴史を感じる街並みになっています。
東一口新墓地蔵
集落に入る前に少し寄り道をしていきましょう。
先ほどの交差点のところにもどり右に曲がると「東一口新墓地蔵(地図)」があります。
六地蔵尊が祀られており、この地区の守り神です。
最初にここに立ち寄ったのは、まずはお地蔵さんに挨拶してから集落に入るのが礼儀というものだからです。
東一口 地蔵堂
東一口地区にはもうひとつお地蔵さんがいます。
それが「東一口 地蔵堂」で、こちらが本来のお地蔵さんがいた場所です。
先ほどの東一口橋を渡って、まっすぐ進むとすぐに二又になるので右折します。どん付きで右に曲がると「東一口 地蔵堂(地図)」があります。
東一口の大庄屋 山田家住宅
お地蔵さんのところから来た道を戻り、今度はそのまままっすぐ進むと東一口のメインストリートです。
古い歴史的建造物が立ち並ぶ街並みを見ながら歩くと、ひときわ立派な住宅があります。
それが「東一口の大庄屋 山田家住宅(地図)」です。
現在は京都に寄贈されており「旧山田家住宅」と呼ばれていますが、東一口地区の総帥であった山田家が住んでいた大屋敷です。
東一口は、昭和8年に巨椋池干拓工事が着工されるまで漁業を専業とする集落でした。後鳥羽上皇から賜ったと伝えられる漁業権は「東一口村・小倉村・三栖村・弾正町」の漁師に与えられ、その範囲は広大で東は津軽外(つがるそと)まで、西は艪櫂(ろかい)の及ぶ限り漁が許されたと言います。
津軽外は青森のこと、西は行けるとこまでとかなり広大であるため実際にはそこまでは行かなかったであろうと思われますが、山田家はその漁業権の総帥であった格式ある一族の家なのです。
第一木曜日・第二土曜日・第三日曜日の月に3日だけ見学が可能です。
入館料はひとり200円で、午前9時から正午までと短い時間ですが旧山田家住宅を見ることができます。
豊吉稲荷神社
先ほどの山田家住宅の南に2つ見るべきところがあります。
ひとつが「豊吉稲荷神社(地図)」で「ほうよしじんじゃ」と読みます。
この神社については詳しいことが分かっておらず、地区伝承では巨椋池の干拓の際に白狐が現れ、それを祀った社だと言われています。
前述で「いもあらい」という漢字は「芋洗」が当てられていると書きましたが、野菜の芋のことではないとも言われています。
イモは痘痕(とうこん)という泡瘡(ほうそう)という感染症が治った後にできる皮膚のくぼみのことで、いもをあらう=庖瘡平癒の意味があるのではないかとも言われているのです。
この豊吉稲荷神社は庖瘡平癒の神様であるとも言われますが、それを裏付ける史料は見つかっていません。
残土から見つかった地蔵
豊吉稲荷神社から東に細い道を歩くと小さな堂があります(地図)。
中には地蔵が安置されており、説明にはこのように書かれていました。
この仏像は昭和50年代に京都市中より搬出された残土の中から招来した二面石仏である。この度有志相計りこの処に安置して普くその利益を希うものである。
この地に運ばれた残土の中から見つかったというお地蔵さんは今は地域の守り神になっているのです。
まとめ
さて、他にも巨椋池排水機場公園(地図)・大池神社(地図)といった見所がありますが、難読地名「東一口」がどんなところかお分かりいただけたかと思います。
放送される『四季彩キッチン』では聖護院大根の紹介が主たるものだと思いますが、産地である「東一口(ひがしいもあらい)」について今回はどんなところなのか写真で解説しました。
難読地名として紹介されることが多い「東一口」ですが、そこがどんな場所かまで解説する記事はほとんどありません。
東一口がどんなところなのか知っていただける機会になれば幸いです。