2020年11月11日放送『歴史秘話ヒストリア』で京都の貴族「近衛前久」が紹介されるようです。波乱万丈の人生で「流浪の戦国貴族」とも言われた貴族ですが、近衛前久は京都のどこに住んでいたのでしょうか? 今回はそれをテーマに現在の同志社大学新町キャンパスに残る「御霊殿」を紹介します。
京都の貴族「近衛前久」が『歴史秘話ヒストリア』で紹介
2020年11月11日放送の『歴史秘話ヒストリア』で、戦国時代に生きた関白「近衛前久(このえさきひさ)」を紹介するそうです。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場するなどし、織田信長とも親交があったとされる人物ですが、その人生は波乱万丈で「流浪の戦国貴族」とも言われています。
いわゆる「五摂家」の名門「近衛家」の人で、藤原氏から続く一族です。五摂家とは「近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家」で鎌倉時代から江戸時代まで摂政・関白の任についてきた貴族のことです。
近衛前久は1536年に京都で生まれます。4歳で元服し近衛晴嗣(はるつぐ)を名乗り、5歳の時には従三位(じゅうさんみ)となり公家の中でも最高幹部として国政を担う職「公卿」に列します。今でいえば大臣です。
11歳で内大臣、17歳で右大臣、18歳で関白左大臣と出世し、19歳で近衛前嗣(さきつぐ)を名乗ります。
分かりやすくいえば「日本トップレベルの貴族」ですが、関白時代(24歳)の時に長尾景虎(後の上杉謙信)と共に関東平定を目指すなど武家のような働きもしてきました。
32歳の時に従兄弟でもあった将軍の足利義輝が暗殺されると、その関与を疑われ関白を解任。朝廷から追放されるのですが、40歳手前の時に上洛した織田信長によって京都に戻ることを許されます。その後は信長と共に天下平定を目指すものの本能寺の変で織田や羽柴(豊臣)との関係が悪くなり徳川家康を頼り浜松に身を寄せます。
その後も京都に戻ったり奈良に身を寄せたりと戦国乱世を生き残り、50歳を越える年になった頃には今の銀閣寺にある東求堂を別荘として隠遁しました。
説明長いですが、平たく言うと・・・・
京都には近衛前久ゆかりの地がたくさんある
わけです。
京都には「近衛」と付く町名がある
では、近衛前久は京都のどこに住んでいたのでしょうか?
京都には「近衛」と付く町名が4か所あります。
近衛殿表町、近衛殿北口町、近衛町(室町通)、近衛町(油小路通)
ですが、京都には地名や通り名に貴族の名前が付いていることは珍しくありません。
御霊殿(近衛殿表町、近衛殿北口町)
特に、貴族の屋敷があった場所が地名として残っており「近衛殿表町、近衛殿北口町」はそこに近衛家の屋敷があったことを意味します。
歴史の中で屋敷の場所は変わりますし、当時は広大な広さを誇っていたと思われますので、その町名の範囲がずばり屋敷跡とは言えないのですが、その近隣にあったことはうかがえます。
上の写真の「近衛殿表町」は京都市上京区にある地名で、今は「同志社大学 新町キャンパス」のところが該当します。
近衛殿北口町はそのすぐ西側にある町名で、今は細い通りがあるだけで、北端は小川児童公園に一部被る町です。
新町キャンパスの自転車置き場の隅に「近衛家旧邸址の碑(大正7年設置)」がありますが、今は面影は何もありません。
なぜ、この「近衛殿表町、近衛殿北口町」を一番最初に紹介したかというと、この場所は室町時代からあったとされるからです。
当時は「御霊殿」と呼ばれ近衛家の「本邸」に該当する場所ですが、本来は近衛家の長女が住む邸宅があった場所です。
1478年で一度焼亡し、敷地内にあった近衛家の職員であった進藤家が一時的に近衛家の宿になった時期もあったのですが・・・・
その後の1483年に近衛政家(13代当主、1446年~1544年)により再建されると「近衛殿」と呼ばれるようになります。
その後は1500年にまた焼亡、すぐに再建されます。
1557年の上京大火でまた罹災するも1580年頃まではこの地に近衛家の本宅がありました。
つまり、近衛前久が生きた時代(1536年~1612年)の近衛家本宅があったのがこの場所です。
近衛前久が京都不在であった時期に荒廃して、近衛前久は1575年に織田信長によって京都に戻ることを許され戻った後は今の聖護院付近や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の邸宅に住んでいたこともあるそうですが、基本的にはこの場所が近衛前久の本宅になります。
なお、江戸時代には「桜御所」と呼ばれるようになり、今でも「桜御所跡地」とも呼ばれています。
近衛町(室町通、護王神社付近)
ちなみに、近衛町と名前が残る場所は他にもあります。
それが京都御苑の西、室町通沿いにある「近衛町」です。
ちょうど「護王神社付近」の西側付近が該当しますが、平安時代から近衛家の本宅があったとされる場所です。
しかし、1467年の応仁の乱で消失。
その時の当主(11代)「近衛房嗣(1402年~1488年)」は先に紹介した近衛家の長女が住む邸宅「御霊殿(桜御所)」を宿として住むことになります。
ということもあり、この場所で近衛前久が過ごしたことは時期的にはありません。
近衛邸跡(京都御苑)
1573年~1592年に公家町整備が行われます。
近衛前久は1575年に織田信長によって京都に戻ることを許され戻った後は一時期は鹿児島の島津藩などでも過ごしたようですが、1577年に朝廷に戻ります。
近衛前久(16代当主)が40歳代頃のことですが、1580年に京都御苑の北西隅に近衛前久は住み始めたようです。
それが近衛家の邸宅として一番有名な京都御苑北西箇所に残る「近衛邸跡」のところです。
別名「今出川第」と呼ばれ、先ほどの「御霊殿(桜御所)」は「上之御所」と呼ばれ、今出川第は「下之御所」と呼ばれたそうです。
1582年の本能寺の変が起こった頃に近衛前久は子息の近衛信尹(このえのぶただ)に家督を譲ります(信尹は御霊殿に当時住んでいました)。
その後、近衛信尹(17代当主)は近衛家の本宅を京都御苑北西隅にある「今出川第」とします。
そして、明治維新までは近衛家はこの場所に住むことになり、近衛家の本宅として一番有名になりました。
ただし、近衛房嗣から近衛信尹までの本宅は基本的には一番最初に紹介した「御霊殿(桜御所)」であるため、近衛前久の本宅は「御霊殿(桜御所)」であると言えますね。
歴史秘話ヒストリア 2020年11月11日 予告
歴史秘話ヒストリア 2020年11月11日 予告は以下の通りです。
『麒麟がくる』でも注目、戦国時代の貴族・近衞前久(このえ・さきひさ)。「関白」でありながら型破りな行動で戦国の重大局面をも動かしていく。若き関白が乱世を駆ける!
大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』に登場し、一躍注目を集める貴族がいる。近衞前久(このえ・さきひさ)だ。前久は、貴族の中でも筆頭の家柄の近衞家に生まれ、関白職を務めた。その行動は貴族としては、型破り。上杉謙信とともに戦ったり、織田信長のために、和平交渉をまとめたり。戦国の重大局面を自らの力で動かしてきた。前久が目指したのは、戦のない平和な世の中だ。型破りな貴族・近衞前久の知られざる激闘の日々に迫る。