京都の中京区に「桑原町」という不思議な町があります。一軒の家もなく、人も住んでもいない「町」です。なにやら怖い感じというかミステリーを感じる町名ですが、桑原町は丸太町通の道路の一部に付いた町名なのです。
では、なぜ道路の一部が「町」になっているのでしょうか。
それは京都の「町割り」が「両側町」という考え方で行われてきたからです。
京都の丸太町通上にある不思議な町名「桑原町」
今回の「京都秘境ハンター」は京都御苑のすぐ南にある不思議な町名「桑原町」についてです。
京都地方裁判所の北側、丸太町通に残る町名で、実際には家屋などは一切ありません(道だけです)。
あるのは京都市バス「裁判所前バス停」のみ、あとは歩道と丸太町通だけという風景だけの町なんです。
京都地方裁判所の植木がある部分に少し被るように町が設定されており、その大部分は「丸太町通」の道路でしかないという町なのです。
とはいえ、写真だと分かりづらいので航空写真で見てみましょう。
京都市中京区「桑原町」の航空写真
上の航空写真が現在の京都市中京区「桑原町」です。
東西の通りは「丸太町通」で、すぐ南側が「京都地方裁判所」になります。
このように見ると「桑原町」が丸太町通の一部と京都地方裁判所の一部で形成する「町」であることがわかりますが、なぜこのような町名が残ってしまったのでしょうか。
幕末京都「桑原町」の地図
上の古地図は「京屋長兵衛謹製 古地図」を一部拡大したものです。
天保2年(1831年)に初版が作成されたもので、うちの困ったちゃん温泉担当が部屋に飾っているものを撮影してあります。
この地図は慶応3年(1867年)に再刻されたもので、慶応4年が明治元年だから「幕末の地図」になります。
・オレンジ枠 通筋名
・青枠 町々小名
分かりづらいので拡大したものが上の写真です。
赤い枠は「公家町」で現在の「京都御苑」になり、現代と幕末で位置関係は変わっていません。
オレンジ枠は「通筋名」で、左が「柳馬場」右が「富小路」で、これも現代と幕末で位置関係は変わっていません。
その間にある青枠が「桑原町」で、青い丸枠が同じように区分けされた所です。
古地図でよく読めない文字で書かれていますが、これらの青い丸枠には「~丁」という表記が読み取れます。
桑原町=桑原丁 があった場所
桑原町の部分をさらに拡大して文字を縦に修正したものが上の写真です。
「~丁」と書かれているのが分かるかと思います。
左に「赤色の四角」と、右に「黄色の四角」がありますが、この赤色枠は「公家、武家」の家があった場所で、黄色枠は「町人」の家があったことを示しています。
では「白い部分」これはなんなのでしょうか?
白い部分は「道」です。
先ほどの地図では、四角の枠に「丸太町、ふや町、富小路、柳馬場、高倉」などと書かれている箇所があるのですが、現在の通筋名と一致しています。
では「~丁」というのはなんでしょうか?
これは自治組織の最小単位です。
一般的に町名というのは「住宅や道路を含むエリア」ですが、その中に「なん丁目」という表記が現在でも残っています。その丁です。
京都では「丁」は道路を中心とした向かい合ったエリアを「丁」もしくは「町」と読んでいました。
上は「丁」を一部だけ青枠で囲ったものです。
道を中心に向かい合った数軒の集合単位が「丁=自治組織」で、これを「両側町」とも呼んでいます。
中央の道を「オモテ」と呼び、丁の人々はこの道を共用空間として生活していました。
今でも家の外のことを「オモテ」と言いますが、その「オモテ」というのはその名残です。
桑原町も元は「桑原丁」という共用空間が存在していたことが幕末の地図で分かります。
地図では「公家、武家」の屋敷と「町民」の家との間にあった空間だったようですが、すぐ上に武家町への入口がありますので「共用空間」というイメージではなかった可能性はありそうです。
桑原町は今で言う「町」ではない
このように見ると「桑原町」というのは、今で言うところの家があった場所ではなく「空間」としての「丁」があった場所です。
幕末の地図では南側は町民の家、北側は武家の家があり、自治組織の最小単位「丁」が割当られていたのでしょう。
ここで当時は何があったのかまではわかりませんが「桑原」と呼ばれていること、さらに武家の家があったことから、かつては「辻斬り」が頻発した場所なのかもしれません。
もしくはもっと昔から「桑畑」があったかもしれませんし「桑原」という人が住んでいたのかもしれません。
※実際には菅原道真の末裔である桑原家という一族が住んでいた場所です。
ちなみに一般的には「丁」は「一丁、二丁」などと呼ばれて丁目となり、それの集合体が「町」となっていきます。
京都では違って、かつての「丁」がそのまま「町」になっている所がものすごく多いので「何丁目」という住所が少ないないのはこういう理由があるからです。
ただし、京都御苑の南側には「五丁目(地図で見る)」とか「六丁目(地図で見る)」といった町名が残っていたりするので、かつてはどこかでは「何丁目」という呼び方もしていたのでしょう。
😃「京都には町名がたくさんあるし、細かいし複雑だよ」
←想像図🤔
→実際😳 pic.twitter.com/ciBb8DJjKk
— はんなり京都マップ (@ag3nkyoto_tech) 2017年4月9日
最近でも「京都の町の区分けが複雑すぎ」と話題になったりしますが、かつての「丁」という空間が「町」として残っているわけで、京都の歴史の深さはこういった地名からも読み取ることができるのです。