2018年11月8日の『秘密のケンミンSHOW』で「京都フミンは史跡に無関心?」というテーマで、坂本龍馬が襲撃された近江屋が紹介されるそうです。今の近江屋は回転寿司チェーン「かっぱ寿司」になっていますが、それが史跡に無関心という感じに映るようです。
今回は本当に京都の人が史跡に興味がないのか書いてみたいと思います。
京都府民は史跡に無関心なのかが『秘密のケンミンSHOW』で話題に
2018年11月8日の『秘密のケンミンSHOW』で「京都フミンは史跡に無関心?」という企画で放送されます。
予告では「龍馬も新選組もありがたがらない」とも書かれていました。
京都の人が「龍馬も新選組もありがたがらない」というのは、例えば「近江屋跡が回転寿司になっている」とか「池田屋跡は居酒屋になっている」というのを事例にするんだと思います。
・三条大橋の刀痕(三条)
・池田屋跡(三条)
・近江屋跡(三条)
京都は日本の都(中心)であったことから「寺社仏閣、発祥の地」などの歴史的遺構(史跡)や建造物が多く残る町です。
京都市内を歩けば、そこらかしらに歴史を感じるものが見られます。
京都を訪れる観光客の皆さんも、そんな京都に魅力を感じていらっしゃているものと思いますが・・・・
確かに住んでいる京都府民自身はあまり気にしているとは言えません。
近江屋跡は回転寿司店「かっぱ寿司」になっている
三条にある「かっぱ寿司」さん、元は同じく「京のとんぼ」という寿司店だった場所があります。
※2023年6月時点でこちらの店舗は閉店しています。
ここでは、中高生の修学旅行と思われる学生服姿の子供達をよく見かけ、引率の先生や観光案内のタクシー運転手がいろいろと説明している姿をよく見かけます。
実はココ「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」なのです。
近江屋というのは土佐藩の出入りの醤油商人「井口醤油店」のことで、坂本龍馬と親交があったことから、坂本龍馬は近江屋を隠れ場所にしていたのです。
近江屋跡の案内板には「遭難之地」と書かれています。
慶応3年(1867年)11月15日に土佐藩の海援隊長 坂本龍馬と陸援隊長 中本慎太郎、さらに山田藤吉が十津川郷士と称する集団に襲撃された場所です。
ただ、十津川郷士は尊皇攘夷派であり坂本龍馬と中本慎太郎を襲撃する理由はなく、実のところは新選組が襲撃したという説がその当時から有力でした。
実際に、坂本龍馬の仇討ちのために、京都油小路の旅籠「天満屋」にいた新選組を十津川郷士が襲撃する事態も起きています。
しかし、実際に坂本龍馬を襲撃したのは幕府の自警団(京都見廻組)の「佐々木只三郎・今井信郎・渡辺篤」という説が最近では有力です。
とはいえ、そんな歴史的な場所も今は回転寿司チェーンの「かっぱ寿司」で、史跡の説明案内板が今は残るだけです。
※2023年時点で近江屋跡の「かっぱ寿司」は閉店しています。
実は「近江屋」はとなりの「星乃珈琲」にあった
しかし、厳密にいえば近江屋は現在の「星乃珈琲店 河原町店」の場所にありました。
ではなぜ、この場所に「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の石碑があるのでしょうか。
元々、この場所は「近江屋(井口醤油店)」と北隣りにあった「井筒屋(骨董商)」が並んで存在していました。
北の「井筒屋(骨董商)」が現在の「かっぱ寿司」です。
大正13年に河原町通の拡張工事があり、近江屋(井口醤油店)は取り壊しとなっています。
その近江屋(井口醤油店)があった場所の一部(道路にならなかった部分)は北隣りの「井筒屋(骨董商)」が買い取りました。
井筒屋(骨董商)は自店舗を南側の近江屋まで拡張し、その時に「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の石碑を立てたのですが、井筒屋の玄関にそれを設置したのです。
その後、時代が変わり、近江屋(井口醤油店)の場所には「星乃珈琲店 河原町店」ができました。
そのため、石碑だけは「かっぱ寿司」の側に残って、そこが「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」となったのが実際なのです。
池田屋跡は居酒屋になっている
さて、さきほどの「近江屋」の近くに有名な「池田屋」もあります。
こちらは「池田屋騒動」の跡地で、倒幕派が新選組の屯所を襲撃するために集合地点としていた旅篭(はたご=宿屋)です。
その倒幕派が池田屋に集結していたところを襲撃したのが新選組で、それを「池田屋騒動」と呼んでいます。
実はこちらも今は居酒屋「はなの舞」さんが営業中で、今は史跡の説明案内板が残るだけです。
坂本龍馬寓居之趾
さて、坂本龍馬に関係する場所が今でも変わらず存在する所もあります。
坂本龍馬の海援隊京都本部があった場所です。
こちらは当時から「酢屋」という材木商があった場所ですが、坂本龍馬はここに下宿していました(坂本龍馬居住地趾とも言えます)。
建物は当時とはだいぶ違いますが、今でも酢屋が残っている場所です。
三条大橋の刀痕
他にも、当時の様子が伺い知れる場所がいくつもあります。
「三条大橋の刀痕」や「蛤御門の弾痕(京都御苑)」などがそうでしょう。
上の写真は三条大橋で、欄干に「池田屋騒動」の際に付いた「三条大橋擬宝珠刀傷跡」が残っています。
京都市民は史跡に関心がないわけではない
さて、近江屋は「回転寿司」に、池田屋は「居酒屋」となっている京都ですが、『秘密のケンミンSHOW』が言う「龍馬も新選組もありがたがらない京都フミンは史跡に無関心?」というのは本当なのでしょうか?
概ね間違っていませんが誤解を生む表現です。
京都市民は「史跡に無関心」といえばそうなのですが、そうなる理由というのが存在します。
実際に京都の方と話していて、よく言われるのが・・・・
「京都の人が寺社仏閣で観光とかしない」
「観光地に行っても一回見ればいいかな」
「観光ガイドに載っているようなお店には行かない」
という話です。
もちろん、全員がそう言うわけではないのですが、大筋として「京都の人は観光地には行かない」というのはよく言われます。
しかし「史跡に無関心」というわけではありません。
京都府民は観光地には近づかない
もうひとつ、京都市民が史跡に無関心と言われそうな理由に「京都の方は観光地に近づかない」というのがあります。
普段も、清水寺とか祇園とか南禅寺とか銀閣寺とか金閣寺とか・・・・
観光地っぽい場所へは行きません。
しかし、京都市民は史跡に無関心というわけではありません。
どこに何があるかは当然把握しているし、初詣には有名な寺社仏閣でも行きます。
でも、京都の方と話していると・・・・
「祇園とか観光地は混んでるから」
というような声をよく聞きます。
京都市民が史跡に関心を示さない理由は?
京都市民が史跡に関心を示さない理由としては「身近すぎていつでも行ける」とか「混んでるから」というような理由を聞くことが多いです。
しかし、一番の理由は仕事があるからでしょう。
京都は観光産業が盛んなので「観光シーズンは稼ぎ時」です。
近くに「寺社仏閣、発祥の地」などの歴史的遺構(史跡)や建造物があれば、人が集まるので自然とお仕事的な話になってしまいます。
これが、他府県の方からみれば「興味(関心)がない」ように見えるのかもしれませんね。
・観光地などは混んでるから
・仕事があるから行けない(観光シーズンは特に)