応仁の乱 西陣・東陣の場所@京都『歴史秘話ヒストリア』で紹介

応仁の乱のキーマンのひとり「畠山義就」が2017年12月1日放送『歴史秘話ヒストリア』で紹介されると予告されています。予告では「千本釈迦堂」に残る応仁の乱の刀痕が映っており、戦乱の地となった西陣エリアの名所が紹介されるようです。では、西陣と東陣というのは京都のどこにあったのでしょうか。

今回は「西陣と東陣の名所」を巡ってきました。

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応仁の乱のキーマン「畠山義就」が『歴史秘話ヒストリア』で紹介


600年前の戦争「応仁の乱」の刀跡が残る千本釈迦堂の柱

600年前の戦争「応仁の乱」の刀跡が残る千本釈迦堂の柱

応仁の乱のキーマン「畠山義就」が、2017年12月1日放送『歴史秘話ヒストリア』で紹介されます。

前の戦争(応仁の乱)の時に・・・・

京都人は、前の大戦というと室町時代に勃発した「応仁の乱」と言うとされていますが、京都には「1467年~1477年」にかけて起きた「応仁の乱」の名所がいくつもあります

有名なのは「西陣」で、上の地図にある「黒い枠」の範囲を現在では「西陣」と呼んでいます。

応仁の乱は東西軍に分かれて戦われており「東陣」というのもあったはずですが、現在の「西陣」と呼ばれるエリアは「西陣と東陣両方」のエリアを指す地名になっています。

今回は、この「西陣・東陣」の本来の場所や応仁の乱が勃発した地「上御霊神社」などの歴史的名所をまとめました。

・応仁の乱は「1467年~1477年」にかけて起きた戦い
・現在の「西陣」というのは「西陣・東陣」あわせたエリアで呼んでいる

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東陣の本陣「細川勝元邸跡」


現在の小川通(京都市上京区挽木町付近)

現在の小川通(京都市上京区挽木町付近)

・東軍の本拠地は「細川勝元邸跡」で周辺が東陣であったとされる
・小川が流れていた百々橋(どどばし)から南へ一条戻り橋付近までが主戦場

応仁の乱で東軍が陣取った場所を「東陣」というのは、最近になって言われていることで、当時からそう呼んでいたかは分かりません。

地名として残っているのが「西陣」だけだからです。

では、東陣の場所はどこにあったのでしょうか?

これは東軍の総大将「細川勝元(ほそかわかつもと)」の屋敷があった場所「現在の小川通(京都市上京区挽木町付近)」であろうとされています。

小川児童公園の東陣案内板

小川児童公園の東陣案内板

その場所の南にある公園「小川児童公園」には、最近になって「東陣案内板」というのが設置されています。

すぐ近くには「小川」が流れていたとされ、現在の「小川通」付近で東西軍の戦いが行われていたとされています。

細川勝元邸跡」の北西に「百々橋(どどばし)」の礎石跡が移築されて残っていますが、そこから南へ「一条戻り橋」までが主戦場であったと推測されています。

百々橋(どどばし)の礎石

百々橋(どどばし)の礎石

京都府京都市上京区大猪熊町

西陣の本陣「山名宗全邸跡」


西陣の本拠地「山名宗全邸跡」の石碑

西陣の本拠地「山名宗全邸跡」の石碑

・西軍の本拠地は「山名宗全邸跡」で周辺が西陣であったとされる
・東軍の総大将の家は徒歩5分ほど
・その間には「堀川」と「小川」が流れていた

堀川上立売の南西「フレスコ」の北側に、西陣の本拠地であった「山名宗全邸跡」という石碑があります。

この界隈に、西軍の総大将・山名宗全(やまなそうぜん)の屋敷があったされています。

先ほどの東軍の総大将である細川勝元(ほそかわかつもと)の屋敷から徒歩5分くらいの立地で、中央に「堀川」と「小川」が流れていたとされています。

その「堀川」と「小川」付近が「応仁の乱の主戦場」だったのです。

山名宗全邸跡

山名宗全邸跡

京都府京都市上京区山名町799

細川勝元と山名宗全は、なぜ戦うことになったのか


細川勝元と山名宗全が応仁の乱で戦った理由

細川勝元と山名宗全が応仁の乱で戦った理由

・東陣(足利義視)総大将 細川勝元(ほそかわかつもと)
・西陣(足利義尚)総大将 山名宗全(やまなそうぜん)

では、細川勝元山名宗全が「応仁の乱で戦った理由」というのは何だったのでしょうか。

応仁の乱の始まりは、守護大名であった「畠山政長と畠山義就の家督争い」が始まりですが、その時に将軍職をめぐる後継者争いも同時に起こっていたのです。

それが足利義視(あしかがよしみ)足利義尚(あしかがよしひさ)の争いです。

細川勝元は足利義視を擁する総大将(東軍)山名宗全は足利義尚を擁する総大将(西軍)であったことから、この両者は10年にもおよぶ「応仁の乱」へと突入していきます。

応仁の乱 開戦の地「上御霊神社(御靈神社)」


応仁の乱 勃発の地

応仁の乱 勃発の地

・応仁の乱の始まりは1467年(応仁元年)の正月18日
・御霊の森(上御霊神社周辺)で起きた
・畠山政長と畠山義就の家督争い

実は、この「応仁の乱」ですが、最初は守護大名・畠山家の家督争いが最初でした。

1467年(応仁元年)の正月18日に「御霊の森(現在の上御霊神社周辺)」で畠山政長(はたけやままさなが)と畠山義就(はたけやまよしひろ)の家督争いが始まり、応仁の乱が幕開けとなりました。

その戦いは、他の将軍や大名を巻き込んで、5月には上京区全域で東西軍に分かれての合戦へと発展します。

それが前述の「東軍と西軍」です。

京都府京都市上京区上御霊竪町495番地

なぜ畠山家の家督争いが応仁の乱に発展したのか


応仁の乱 開戦の地「上御霊神社(御靈神社)」

応仁の乱 開戦の地「上御霊神社(御靈神社)」

・東軍は畠山政長(援軍:成身院光宣)※細川勝元は参加していない
・西軍は畠山義就(援軍:山名宗全、山名政豊、朝倉孝景)
・初戦は畠山義就の勝ち
・細川勝元は畠山政長を支援していた
・山名宗全は畠山義就を支援していた

12月1日放送の『歴史秘話ヒストリア』では、畠山義就の視点から「応仁の乱」を見るそうです。

守護大名であった畠山家の家督争いが、なぜ「応仁の乱」へと繋がるのでしょうか?

畠山政長畠山義就の家督争いは、畠山政長が上御霊神社(御靈神社)に一族郎党2000名で布陣したことから始まります。

畠山義就は兵3000名で攻撃を開始、この畠山義就に援軍を出したのが前述の西軍総大将で有力守護大名であった山名宗全(山名持豊)です。

元々から、管領であった細川勝元守護大名の山名宗全の権力争いがあって、東軍総大将・細川勝元は畠山政長に援軍を出すべき人物でしたが、この初戦では細川勝元は兵を動かさずに、畠山政長は敗退します。

応仁の乱の激戦地「一条戻橋」


応仁の乱の激戦地「一条戻橋」

応仁の乱の激戦地「一条戻橋」

・応仁の乱の実質的な開戦は、1967年5月26日~27日かけて行われた「上京の戦い(一条大宮の戦い)」
・東軍は西軍の拠点「花の御所」を占領
・足利義政は東軍の細川勝元を官軍とした

応仁の乱は「上京の戦い(一条大宮の戦い)」と呼ばれる1967年5月26日~27日かけて行われた激戦で実質的に開戦となります。

戦端は「一条戻橋」から西軍が攻め入ったことから始まります。

この橋の下を流れる堀川が東軍と西軍の境目で、おのずと堀川周辺で戦闘が多くなっていきます。

この戦いの後に、8代将軍の足利義政は東軍の細川勝元を官軍としたので東軍が優勢となります。

京都府京都市上京区堀川下之町

東陣の拠点「花の御所」


「花の御所」は現在の烏丸線「今出川駅」付近のこと

「花の御所」は現在の烏丸線「今出川駅」付近のこと

・足利義視を支援したのが細川勝元
・足利義尚を支援したのが山名宗全
・東軍の細川勝元は、細川勝元邸宅と花の御所を拠点とした

応仁の乱 開戦の地「上御霊神社(御靈神社)」の戦いの後、5月から本格的に応仁の乱が開始されたわけですが、その前から東西軍の勢力範囲は事前に決められていました。(つまり戦闘準備していた)

東軍の細川勝元は、全国から味方を集めて戦時体制を整えていきますが、その拠点が「花の御所」です。現存はしていませんが、今の「今出川駅」の少し北側にありました。

花の御所」は、足利将軍家の邸宅のことですが、周辺には有力守護大名が邸宅を構えて集まっていた場所でもあります。

前述のように、応仁の乱は足利家の将軍職争いですが、8代将軍足利義政は子供がいなかったので(異母兄弟で弟の)足利義視を養子にしていました。

つまり、足利義視は次期将軍になる予定でしたが、8代将軍足利義政に実の息子・足利義尚が生まれます。

当然のように、ここで将軍職争いが起きて、それを支援する細川勝元と山名宗全の争いになっていくのです。

西陣の拠点「千本釈迦堂(大報恩寺)」


西陣の拠点「千本釈迦堂(大報恩寺)」

西陣の拠点「千本釈迦堂(大報恩寺)」

・西軍の山名宗全は、山名宗全邸宅と斯波義廉邸宅を拠点とした
・山名宗全が保護した寺が「千本釈迦堂(大報恩寺)」
・千本釈迦堂は創建当初からの本殿が残っており洛中最古の建造物

さて、足利義尚を支援した山名宗全が西陣を置いたエリアにあるのが「千本釈迦堂(大報恩寺)」で、ここにある不動明王堂の不動明王像は西軍総大将である山名宗全の私物だった念持仏です。

つまり、このあたりは山名宗全の勢力下であり「千本釈迦堂」は山名宗の保護下にあった寺です。

ということで、ここでも応仁の乱の戦いが繰り広げられてきました。

鎌倉時代1227年建立で、応仁の乱で唯一残った建物ということで洛中最古の建造物です(国宝建築)。

京都府京都市上京区溝前町
本堂拝観料:600円
URL:http://www.daihoonji.com/

千本釈迦堂に残る応仁の乱「刀痕」


応仁の乱の際についたとされる刀痕が今でも残る(千本釈迦堂)

応仁の乱の際についたとされる刀痕が今でも残る(千本釈迦堂)

この「千本釈迦堂」には、応仁の乱の際についたとされる刀痕が今でも残っています。

現在は、本堂内に刀痕があり、12月1日放送の『歴史秘話ヒストリア』の撮影も入っていてテレビで放送されます。

刀痕のある柱は、元々は外にあったもので「千本釈迦堂」の大修理の際に今の本堂内の柱に使われているので、現在では本堂の右側の柱で見ることができます。

本堂内の柱にある刀痕

本堂内の柱にある刀痕

上の写真が『歴史秘話ヒストリア』の予告で出ていた刀痕です。(拝観料600円)

もうひとつ左上にもそれっぽいのがあります。

相国寺


相国寺

相国寺

・相国寺は東軍が拠点としていた
・優勢であった西軍が攻め込んで占領するも再度奪われるなど激戦地となった
・この戦い(相国寺の戦い)で両軍疲弊して休戦となる
・応仁の乱のなにかがあるわけではない

相国寺(しょうこくじ)は、今出川の同志社大学の北東にある大きなお寺です。

創建時はもっと広かったそうですが、ここにも東軍の拠点が置かれていました。

ここで繰り広げられたのが「相国寺の戦い」と呼ばれる1467年10月3日~4日にかけての大激戦です。

しかし、この戦いで両軍の疲弊は激しく、この後に戦いは一時休戦状態となるターニングポイントになった場所でもあります。

京都府京都市上京区
URL:http://www.shokoku-ji.jp/

応仁の乱 西陣・東陣の場所 まとめ


千本釈迦堂に残るもうひとつの応仁の乱の刀痕

千本釈迦堂に残るもうひとつの応仁の乱の刀痕

・応仁の乱は1467年1月18日に始まった(旧暦)
・応仁の乱は1477年11月11日に終わった(旧暦)
・東軍の細川勝元と西軍の山名宗全の勢力争い
・しかし、始まりは畠山政長と畠山義就の家督争い

・応仁の乱後も畠山政長と畠山義就の家督争いは続く
・主だった戦闘は上京区と中京区
・日本国内の内戦でも総力戦の始まりとも言える
・武家だけでなく、戦力不足を補うために非正規の足軽を雇用するなどの変化があった

1467年1月18日~1477年9月22日」にかけて起きた「応仁の乱」は、1477年に終息していきます。

結局は決着がつかないまま和睦が進み西軍が解体され終わりを迎えていくのです。

元々は、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全の勢力争いですが、この二人の大物が争ったことから、関係する人々が合戦に参加するなど巻き込まれて大きな戦いになっていったようです。

なお、戦後も畠山政長と畠山義就の家督争いは続きます。

結局は「応仁の乱」は、始まりも終わりも畠山政長と畠山義就の家督争いであったと言え、それだけだったらこんな大きな戦いには発展しなかったでしょう。

ちなみに、この戦いで京都の大半が消失したと思われていますが、実際の戦闘は上京区と中京区で行われており、京都全体が荒廃したわけではありません。

歴史秘話ヒストリア 12月1日 予告


歴史秘話ヒストリア 12月1日 予告は以下の通りです。

今年一番の歴史トピック「応仁の乱」。将軍や大名が敵味方に入り乱れ、なんと11年に及んだ大乱を読み解くカギ、それが畠山義就だ。幕府にあらがった「大悪人」の真実!
今年一番の歴史トピック「応仁の乱」は、室町時代の京都を舞台に将軍や大名がなんと11年も戦い続けた大乱。登場人物が多く、人間関係も複雑でわかりにくい…。しかし歴史学者の呉座勇一さんは、この大乱を読み解くカギとなる1人の男がいるという。それが畠山義就。幕府にあらがい、前代未聞の大悪人と呼ばれた男だ。応仁の乱はなぜ始まり、11年も続いたのか?そして、日本に何をもたらしたのか。全ての答えが畠山義就にある!