今回の「京都秘境ハンター」は山陰街道の古道を歩いて来ました。現在の山陰街道は京都だけでいえば「王子並河線(京都府道402号)、国道9号線の一部・京都府道142号と府道113号(七条通)」が該当しますが、当時のルートでは一部別ルートになっている部分があります。それが山陰街道の古道(山陰古道)です。
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明智光秀が本能寺へ行く時に通った山陰道
以前、テレビで明智光秀による本能寺の変を検証するという番組を放送していました。
その際に「明智光秀が本能寺へ行く時に通った道」を歩き、亀岡城がある京都府亀岡市から京都市中京区にある元本能寺町へのルートを検証。
明智光秀がどれくらいの時間で到達したのか、途中で目撃されたら目撃者を切り捨てて向かったなどの内容でした。
映像では亀岡から京都へと至る山道を紹介しており、常々歩いてみたいと思っていた道です。
その道というのが「山陰街道(山陰道)」。
京都から亀岡や福知山を通り、日本海側を通って山口市まで続く昔の主要幹線です。
山陰街道には古道がある
現在の山陰街道は舗装され、今でも主要幹線として利用されています。
当然、昔の面影はありません。
亀岡から京都市内でいえば現在の「王子並河線(京都府道402号)、国道9号線の一部・京都府道142号と府道113号(七条通)」が該当し、洛中への入口は「丹波口」というルートでした。
でも、一部に「古道」が2か所残っているのです。
一か所は亀岡城から王子並河線を歩いていると「王子神社」というのがあり、そこから古道の一部に入ることができます。
もう一か所は「旧老ノ坂峠」を通るルートです。
今回はこの2つのルートを歩いてみました。
王子神社から山陰道の古道に入る
かつて亀山城跡の南側に「亀山宿」というのがありました。
そこから王子並河線(京都府道402号)を東へ行くと「山陰街道入口」と書かれた案内板が見えてきます(京都府亀岡市篠町)。
すぐ近くには王子神社、あと「京つけもの もり」さんがあります。
その北側に標識があり、道幅1メートルくらいの狭い道が通っています。
道は田んぼへと続きますが、これが・・・・
山陰街道の古道(山陰古道)
です。
山陰街道の古道に入るとすぐに田園風景が広がります。
あるのは山陰街道の古道(舗装されています)と田んぼの畦道。
そして鵜ノ川が流れています。
山陰古道の途中に昔は船着き場があったそうです。
写真で見るかぎりでは船など通れなさそうな浅い川でしたが、昔はもっと水量があったのでしょう。
この川は亀岡城の北を流れる「大堰川(おおいがわ)」から繋がってきており、昔はここまで水路を使って物資や人などを運んでいたのかもしれません。
明智光秀も使ったかも?
そんな空想を楽しみながら歩きます。
山陰街道の古道にある三軒屋
しばらく田園風景が続きますが、しばらくすると森が見えてきます(京都府亀岡市篠町王子瓜ノ尾)。
ここからしばらくはさらに道が細くなり「林道」となるので、路面には石や木枝が散乱してくるようになってきます。
その途中にあるのが「三軒屋」です。
この地名、亀岡市には他にもあり、大阪にもある地名です。
概ね、名前の由来は「三軒の民家があったから」というのが理由で、江戸時代ですら周囲に民家はほとんどなく三軒も家があれば地名になるほどだったことが分かります。
ちなみに、先ほど書いたテレビの内容で、明智光秀は本能寺へと向かう途中で目撃されたら目撃者を切り捨てて行ったという内容がありました。
この地域は江戸時代の丹波国亀山藩領で明智光秀のおひざ元だったでしょう。
また民家もないような道であったでしょう。
この付近で明智光秀が目撃者を切り捨てて行ったと考えるのは想像すらできませんでした。そういう所業に出たのはもっと京都寄りからというのが実際のところでしょう。
山陰街道の古道にある占い石
さて、林道を抜けるとすぐにまた田園風景と民家が見えてきます。
すぐにまた林道となり、坂道となります。
そこにあるのが「占い石」です。
占い石と呼ばれる座れるくらいの石のことです。
昔は山陰街道を行きかう旅人はこの石に座る辻占い師に旅の吉凶を問うたのだそうです。
昔は「辻占(つじうら)」と呼ばれる占いがあり、辻というのは道が交差するところのことです。
昔は交差点のところに占い師がいて、旅人を占ったのだそうです。
ちなみに実際には交差点はなく、あるのは石だけです。
四角形の腰掛やすい石があるのみでした。
中の谷林道
先ほどの占い石のあるところ(竹林)を抜けると「中の谷林道」と交わるところにでます(京都府亀岡市篠町王子桜木)。
中の谷林道入口と標識があり、北東に別の道が続きます。
林道とあるので近世の道だと思いますが、北にある沓掛山を越えて大回りして西京区の京都市立大枝中学校付近にでる山道のことです。
林道の方へ向かってしまうと登山になるのと山陰街道ではないので、南東へと続く道を歩きます。
すると国道9号に接続していました。
国道9号の山陰古道口
山陰街道の古道は途中で国道9号線に出ることになります。
ここまでは山陰古道のひとつめです(地図)。
上の写真は歩いてきた道、目の前の国道9号は広い道でダンプやトラックや自家用車などがかなり高速で途切れることなく走っています。
ここからさらにもうひとつの山陰古道へと入る「王子道登り」と呼ばれる場所まで国道9号を歩かなければなりません。
しかし横断歩道はなく、歩道もないし、車の流れが多すぎです。
ということで、ここから450メートルはうちの困ったちゃん温泉担当のバイクに便乗して向かいます。
もうひとつの山陰古道への入口「王子道登り」
さて、もうひとつの山陰古道には「王子道登り」から入ります。
京都縦貫自動車道の作業道(側道)となっているところです。
この道の先には集落があり、途中には「旧老ノ坂峠、従是東山城国 道標、首塚大明神」といった見どころへとつながっています。
その道がもうひとつ残る山陰古道です。
明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言った旧老ノ坂峠
現在の国道9号線にある「老ノ坂峠」は新しく呼ばれるようになった峠です。
今は道がまっすぐ1本ですが、昔はこの老ノ坂峠を越える山道が曲がりくねって通っていました。
その道が山陰街道の古道で、途中には昔の老ノ坂峠があります(地図)。
明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったのがこの「旧老ノ坂峠」と言われています。
峠の先から京都府亀岡市篠町王子田ノ尻となり集落が見えてきます。
国際日本文化研究センターの「老の坂(をいのさか)」図を見ると、手前に描かれた「旧老ノ坂峠」は片側が崖、もう片側は山という道であったようです。
図には牛車(ぎっしゃ)で米俵らしきものを運ぶ商品、着物を着た旅人の女性が描かれており活気のあった道であることが分かります。
図の上にはもうひとつ峠がありそこに茶屋が複数あるのが描かれています。
それらは「旅籠(はたご、宿のこと)、升屋(料理屋の類)、万屋(よろずや、雑貨販売の類)、蕎麦屋」で、峠の東側の山頂にあったようです。
そこからは淀や伏見までが一望できたと言われています。
従是東山城國の石碑
旧老ノ坂峠を少し下るとすぐに西京区になります。
今の亀岡市と西京区の境界線でもあるのですが、江戸時代には丹波国(亀岡市)と山城国(西京区側)であったところです。
そこには今でも「従是東山城國」と書かれた石碑があります。
明智光秀がここらあたりで「敵は本能寺にあり」と部下に明かしたのはここが亀岡から京都に入る境界だったからなのでしょか?
しかし、実際には明智光秀が部下に作戦を話したのは軍議を開いた「篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町篠上中筋45−1)」だとされています。
ここから先には「首塚大明神」があり、その先からは林道(山道)へと続き、その先は京都霊園の敷地になります。
首塚大明神は酒呑童子を退治した際に首を京都へ持ち帰ろうとしてもここから先へは首が動かず、ここに首塚を作ったことが由来になっています。
この神社の左側の道の先から林道になっており舗装されていない山道になります。
山道を抜けると京都霊園に至ります。
そこからはまた舗装道路になっていて、京都霊園の出入口から国道9号を経由して京都府道142号線へと山陰街道は続くのです。
ここまでが山陰街道の現存する古道です。
他の道のりは前述したように現代道路として整備されていますので当時とはだいぶ様子が違っていますが、こういった古道を通ると当時の風景も見えてくるのではないでしょうか。
補足
さて最初に書いたテレビ番組では、明智光秀は本能寺まで大軍を動かす際に「見つからないように移動する必要があった」と分析していました。
しかし、さきほどの「従是東山城國」と書かれた石碑のところまでは丹波国(亀岡市)で明智光秀の領です。
そこまでは隠れて移動する必要はありません。
実際には明智光秀は「山陰道沓掛(さんいんどうくつかけ)」までは怪しまれずに進むことができたとも言われています。
現在「中原整骨院」があるところ、京都府道142号線沿いですが、そこから南へ行く道があります。
ここが「山陰道沓掛」です。
ここまで明智光秀は軍を進めても言い訳ができました。
なぜなら、彼は公的には「中国攻め(毛利攻め中の豊臣秀吉の支援)」するために軍を動かしていたからです。
この交差点を南へ向かう道は当時の中国方面へと向かう主要街道であったのです。
本来ならここから南へ行くはずですが、ここからさらに東へと山陰街道を進んだとされています。
しかし、実際には亀岡から中国方面に向かう当時のルートは「三草山(大阪府豊能郡能勢町長谷)」を通るルートが普通であり、明智光秀が「山陰道沓掛」まで行ったのは中国攻めのためだと思わせるためという説には些か信ぴょう性に欠けるように思えます。
とはいえ、実際に明智光秀は「山陰道沓掛」までは進軍したようです。
では、明智光秀はここからさらに山陰街道を洛西口や桂川方面に向かって丹波口まで行ったのでしょうか?
信頼性の高い歴史書「信長公記(江戸時代初期)」と「川角太閤記(江戸時代初期)」によれば、その通りで明智光秀は桂川を通ったことになっています。
ただし、信ぴょう性は低いものの江戸時代の軍記「明智軍記」を見ると・・・・
明智光秀は軍を3つに分けて進軍、明智光秀自身は保津峡ルートを経由して嵯峨野から京都に入ったという説もあります。実際にこのルートは実在し「明智越」と呼ばれるルートで保津峡の北にある愛宕山から水尾経由で嵯峨野に向かうルートがあります(明智越ルート)。
別ルートとしては「唐櫃越ルート(地図)」というのもあり、これは老ノ坂から北上して桂川の南側の嵐山の尾根を経由して桂へ抜けるルートもあります。
ただ、どちらのルートも山道で現実的なルートには思えません。
また「明智軍記」には北野白梅町(京都市北区)の地蔵院(椿寺)で本陣をはったとも書かれています。嵯峨野経由ならありえる話ですが、「明智軍記」は創作が多いというのが一般解釈で本当のところは分かっていません。
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