祇園祭で一緒に見たい京都・三条大橋「倒幕運動」の跡地

今回の「京都案内」は、三条界隈で見られる幕末・明治維新の遺跡です。京都は「倒幕運動」が起こった場所でもありますが、幕府側・天皇側が暗闘したのが三条などのエリアです。

ちょうど祇園祭で観光に来ているのであれば、空いた時間で立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

広告

祇園祭で一緒に見たい京都・三条大橋「倒幕運動」の跡地


京都は「祇園祭」一色ですが、三条には歴史を感じる場所がたくさんあります

京都は「祇園祭」一色ですが、三条には歴史を感じる場所がたくさんあります

7月も2週目になると京都は「祇園祭」一色になります。

この時期は一見さん(観光客)が多くて、地元の方は四条・祇園にはあまり近づかないのが普通かもしれません。

さて、京都・三条付近もお店が多いので祇園祭の時には人が集中しますが、よい機会なので「討幕運動など幕末歴史的の跡地」なんかもご覧になってみてはいかがでしょうか?

高山彦九朗 皇居望拝之像


三条駅前にいきなりあるのがどうでもいい銅像(2017年5月撮影)

三条駅前にいきなりあるのがどうでもいい銅像(2017年5月撮影)

京阪「三条駅」に到着すると、いきなりあるのが「高山彦九朗 皇居望拝之像」です。

三条は東海道五十三次のスタート地点で、いわゆる都の入口です。

そこにあるのがこのなので、これを見たがる方もいらっしゃるかもしれませんが、見るほどの価値はありません。

あまりありがたみがないのでスルーしましょう

あまりありがたみがないのでスルーしましょう

1747年生まれで群馬県出身の高山彦九朗という人物は勤王思想を説いて全国を歩いた人です。

京都に5回来ているのですが、そのたびに京都御所に向かって拝礼したとされますが、そこが重要ではなく、彼が「尊王攘夷運動」から「倒幕」に至る歴史の中で思想的な中心にいたことが歴史的には重要でしょう。

要するに明治維新の勤皇の志士たちに影響を与えたのが「高山彦九朗」という人なのですが、そういったことは一切書かれていないので何のためにあるのかいまいち不明です。

三条大橋


今にも朽ち果てそうな「三条大橋」(2017年5月撮影)

今にも朽ち果てそうな「三条大橋」(2017年5月撮影)

三条大橋は東海道の入口で、京都の実質的な玄関とも言える橋です。

今の橋は1973年(昭和48年)に作られたものですが、欄干部分などは木造でシロアリや腐食でボロボロになっています。

ここには幕府の高札を掲げた「高札場跡」と「三条大橋擬宝珠刀傷跡」が残っています。

高札場跡(西詰北角)

高札場跡(西詰北角)

『東海道中膝栗毛』弥次郎兵衛と喜多八の像

『東海道中膝栗毛』弥次郎兵衛と喜多八の像

京都の入口ということで『東海道中膝栗毛』では江戸からお伊勢参りに来た「弥次郎兵衛と喜多八の像」もあります。

話自体はヤジさんキタさんが仕事に失敗して、いわゆる国道1号(旧東海道)を江戸から伊勢神宮まで「自分探しの旅」をするという話なので京都はあまり関係ありません。

そもそも『東海道中膝栗毛』の作者は京都に来たこともありませんので、想像で京都を書いています。

URL:http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000046

三条大橋擬宝珠刀傷跡


三条大橋擬宝珠刀傷跡(2017年5月撮影)

三条大橋擬宝珠刀傷跡(2017年5月撮影)

三条大橋の南北の欄干にある「擬宝珠」には1864年「池田屋騒動」の生々しい跡が残っています。

日本もちょっと前までは野蛮なお国柄でしたが、幕末1864年7月8日に新選組が三条木屋町の旅館「池田屋」で、尊王攘夷派(長州藩・土佐藩)を襲撃した際についた刀の跡です。

150年前の刀傷が今でも見られます

150年前の刀傷が今でも見られます

ここ意外と見落としがちなのですが、当時の記録が今でもあるわけで、なかなか見ごたえのあるスポットです。

橋の南北に二か所残っており、西詰の南側2本目の写真です。

佐久間象山 大村益次郎遭難の地


佐久間象山 大村益次郎遭難の地

佐久間象山 大村益次郎遭難の地

三条大橋を渡って「三条名店街」(河原町通)方面に向かって少し歩くとあるのが「佐久間象山 大村益次郎遭難の地です。

佐久間象山は「勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰」を教育した「開国派」です。

開国派とは「徳川幕府・薩摩藩」のことですが、幕府は外国からの圧力で開国に屈していた時期です。ただし、開国することで国力をつけようと画策していました。

しかし、尊王攘夷が盛んになってきて(後の討幕運動)、幕府は天皇と幕府を密接にする「公武合体」を画策しだします。

佐久間象山は幕府から「公武合体」について相談を受け上洛していたのですが、尊王攘夷派に襲撃されます。ちょうど「池田屋事変」で新選組(幕府側)が尊王攘夷派を襲撃した後の出来事です。

もうひとりの大村益次郎は明治政府の兵部大輔だった人なので教科書でも習いますが、彼は明治の近代軍隊を創設した人でもあり、それが士族の不満をかって襲撃されました。「池田屋事変」は無関係です。

池田屋跡地(現・旅籠茶屋 池田屋 はなの舞)


池田屋跡地(現・旅籠茶屋 池田屋 はなの舞)

池田屋跡地(現・旅籠茶屋 池田屋 はなの舞)

さらに「三条名店街」(河原町通)方面に向かうと「池田屋跡地(現・旅籠茶屋 池田屋 はなの舞)」があります。

前述のように、1864年7月8日に新選組が「池田屋」で尊王攘夷派(長州藩・土佐藩・肥後藩)を襲撃した場所です。

池田屋」では尊王攘夷派(長州藩・土佐藩・肥後藩)が祇園祭の前に御所を襲撃して「久邇宮朝彦親王」を幽閉し、孝明天皇を長州へ連れ去る談義がされる予定となっていました。

それを事前に察知した新選組(京都守護職)が池田屋を襲撃したのが「池田屋事変」です。

石碑もあります

石碑もあります

尊王攘夷派とは天皇中心に外敵を打ち払うという考え方で、今でも似たようなことを主張している人は多く見ますよね。

1864年だと開国派徳川幕府・薩摩藩」に、鎖国派(尊王攘夷)長州藩」の対立があった時期で、土佐藩からも一部尊王攘夷派が参加していました。(同じく土佐藩出身の坂本龍馬は池田屋事変には関係なく脱藩して倒幕運動をしていました)

ただし、1865年頃から尊王攘夷もなんかどうでもよくなって「倒幕運動」になります。

水戸藩学から生まれた「尊王攘夷」思想は時代に合わない思想だったのです。(今の時代でも合いませんが)

近江屋跡(現・かっぱ寿司)


近江屋跡

近江屋跡

さて「池田屋事変」では坂本龍馬は登場しません

たまに間違えている方がいるのですが、京都見廻組という幕府の自警団であった「佐々木只三郎今井信郎渡辺篤」が「坂本龍馬中岡慎太郎山田藤吉」を襲撃したのが「近江屋」です。

有名な「寺田屋事変」はまた別の話です。

お龍の話で有名な「寺田屋」は、伏見奉行が薩摩藩士を語る怪しい浪人が寺田屋にいるということで捕まえに行ったところ、逆に坂本龍馬に襲われた事変です。

1864年 池田屋事変
1866年 寺田屋事変
1867年 近江屋事変

現在は「かっぱ寿司」

現在は「かっぱ寿司」

上の写真が「近江屋跡」で、現在は「かっぱ寿司」です。(その前は「京のとんぼ」という寿司店=かっぱ寿司系列)

京都・三条大橋「倒幕運動」の跡地 まとめ


三条名店街からいくつもの商店街がつながっており全部見るのも大変です

三条名店街からいくつもの商店街がつながっており全部見るのも大変です

幕末の京都は「倒幕運動」で幕府側・討幕側が暗躍した土地でもあります。

特に京都の入口である「三条」(今でも繁華街)には倒幕運動に関係する遺跡が残っています。

実際に歴史を感じられる場所は少ないですが、三条大橋の新選組が付けたとされる刀跡は今でも見られる歴史を語る証人です。

三条名店街からいくつもの商店街がつながっており、そこを訪れる観光客はたくさんいますが、今回紹介した遺跡は意外とスルーされており見過ごされていますが、全部がついでに見られる場所にあるので、祇園祭の時に見に行くのも良いものですよ。


京都の穴場案内 「京いってみた」 や「京都秘境ハンター」。京都の知られざる名所を開拓し、それを参考に観光開発や起業が行いやすくすることが目的です。地元経済への貢献も目標となっています。起業家や行政担当者の方は、ぜひ参考にしてください。


広告

最新記事はトップページで!

京都発・地方が盛り上がるグルメや観光に撮影ロケ地の話題を提供!


購読するならRSSをご利用ください!

RSSはこちらをご利用ください。


マスコミ各社様の記事使用規約についてはこちらをご覧ください。

当ブログでは掲示板やSNSなど他メディアでURLや記事を紹介することはございませんので、掲示板などで記事を紹介されていても一切無関係です。誤解なきようお願いいたします。
当ブログで転載しているTweetはTwitter社の規約(2013/10)に準じた形式(API利用)によって許可された範囲で行われています。また、Tweet内容の所有権はTwitter社の規約によりTweet元のアカウント所有者にあります。そのため、当ブログでその所有権を主張するものではありません。Tweet内容については責任は負いませんので予めご了承ください。